泡沫紀行   作:みどりのかけら

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春の終わりに訪れた、湯のたゆたう静かな谷あい。
空気はまだ冬の名残を含みながらも、土の匂いがやわらかく立ちのぼり、どこか懐かしい気配が漂っていた。

この地を歩いたとき、掌に残ったのは木のぬくもりだった。
言葉にしがたい感情が、ひとつの形として指先に伝わってきた。

それは「出会い」と呼ぶにはあまりにささやかで、「記憶」と言うには少し早すぎる。

けれど、確かにそこに在った微笑みは、ずっと前から、ここに来るのを待っていてくれたような気がした。


0173 微笑みに宿る小さな守り神

湯けむりが、春の空気をやわらかく撓ませていた。

土の匂いに少し湿った木肌の香りが混じり、川べりの細い道を歩くたび、足もとに咲く小さな白い花が音もなくゆれていた。

朝の光はまだ細く、背を丸めるようにして指先に触れた木の皮は、つめたく、けれどどこか体温を宿しているような感触を残した。

 

水音は絶え間なく、しかし声を持たない。

石と石の隙間にあたるたびに、その沈黙に似た囁きが、耳の奥の奥まで染みこんでくる。

ここでは風さえ言葉を使わず、ただ、まぶたの裏をなでるように通り過ぎてゆく。

 

山のひだに抱かれたこの小さな湯の里には、笑うことを忘れない木人形たちがいると、どこかで聞いた。

手のひらほどの大きさの彼らは、木の肌を持ち、けれど春になると、ひとりでに首をかしげて微笑むという。

 

山の湯に近づくにつれて、地に満ちる気配がやわらかくなる。

土の色も明るくなり、道ばたの石に苔が宿り、昼間の陽をすこしずつ吸い込んでいる。

石の角が丸いのは、時が慈しみをもって撫でたからだろうか。

それとも、雪解け水が幾度となく通り過ぎたからだろうか。

 

古びた木の小屋のそばに、あたたかい蒸気が立ちのぼっていた。

屋根の端に絡まるつたの葉が、春風に震えていた。

戸を押すと、きしむ音が背骨にひびく。その音さえも、どこか懐かしい。

 

中は静かだった。

柱のあいだから漏れる光に、細かな湯けむりが漂い、ひとつひとつの粒が空中で踊っているようだった。

木の香りに混じって、やわらかな硫黄の匂いがかすかに鼻をくすぐる。

 

湯のほとりに、小さな棚があった。

そこには、いくつもの木人形が並べられていた。

すべてが微笑んでいた。

まるで、何か大切なことを知っているかのように。

 

その中のひとつを、そっと手に取った。

指先に伝わるぬくもりは、湯の熱ではなかった。

まるで、何かの記憶が木肌に染みついているような、やさしく、かすかな体温。

 

小屋の外に出ると、陽は少し高くなっていた。

光が地面を斜めに撫で、石段の隙間からは細く青い芽が顔を出していた。

ひとつの季節が、静かに次の季節へと橋をかけてゆく。

 

手の中の木人形が、春の光に透けていた。

笑っていた。

何も語らず、ただ、そこに在るというだけで、なぜだろう、ほんのわずかに、胸の奥がゆるむ。

 

声にならない何かが、そっと、呼吸の隙間に溶けていく。

 

足もとに伸びる影が、いくぶん濃くなっていた。

光と影のあわいを渡るとき、時間は少しだけ静まりかえる。

耳に届く水音も、木の葉がすれるささやきも、まるで深く息を呑んでいるように。

 

肩にかけた布が、風を受けてわずかにふくらむ。

温もりを帯びはじめた空気の中に、まだ冷たさの名残がまじっていた。

まるで目をこすりながら目覚める、春そのもののように。

 

奥へとつづく山道の先、誰に見つけられることもなく、ぽつりと佇む祠があった。

朽ちかけた木の鳥居に、蔓草がからまり、薄い若葉が陽を透かしている。

石段には、苔がしずかに根を張り、ひと足ごとに、過ぎてきた季節が靴の裏から伝わってくるようだった。

 

祠の前に、ふたたび、あの木人形たちがいた。

小さな木箱のなかに、春の陽をそのまま削ったような顔をして、並んでいた。

すこし首をかしげた子。

すこし口元のゆるんだ子。

ひとつとして同じ顔はなかったのに、どれもが同じように、だれかを信じているような目をしていた。

 

ふいに、うしろで風が動いた。

枯れ枝が揺れ、鳥の羽ばたきが聞こえた。

 

木人形のひとつに手を添えた。

そっと指を添わせると、木の肌の彫り跡が静かに伝わってくる。

ひとの手が、時間をかけて刻んだ線。

その深さも、迷いの跡も、すべてがそこにあった。

けれど、それを覆うように、すべての表情が、やさしく笑っていた。

 

誰がこれを彫ったのか。

なぜここに残したのか。

知らなくてもよかった。

けれど、わかることがあった。

 

この笑みは、祈りのかたちだった。

春を待ちわびる長い冬の夜に、だれかがぬくもりを託して刻んだ、小さな命のまなざし。

 

両手にそっと包んだとき、木の匂いが、すこしだけ指先に移った。

目を閉じると、その香りの奥に、ぬれた土と、枝を擦る音と、遠くに灯る灯の気配がまざりあっていた。

 

帰る場所のない夜が、世界にやってくることは、幾度もある。

けれどこの笑みを見ていると、不思議と、そのすべてがやわらかく溶けてゆく気がした。

まるで、掌の中に、ひとつの小さな守り神を宿したかのように。

 

ひとつの息を深く吐き、また歩きだす。

陽は、山の端へと傾いていた。

けれど、空はまだ青かった。

光が消えるには、まだ幾ばくかの猶予がある。

 

背を押すように、春の風がまた吹いた。

手の中の木人形が、音もなく、微笑みを深めたような気がした。

 

道はつづいている。

声なき声を、空に返すように、湯けむりがゆらりと昇っていた。

なにも語らぬその煙さえも、どこか祝福のようだった。

 

祠の影が、いつのまにか、こちらを見送る形に伸びていた。

それに気づいたとき、ふと足もとを見た。

一輪の花が咲いていた。

誰にも見られず、誰にも踏まれず。

けれど、確かにここにいた。

 

微笑んでいるように見えた。

何も持たないくせに、すべてを受け入れるもののように。

 

そっと、その隣に、拾った木人形を置いた。

見知らぬ誰かが、またいつか、それを見つけるだろう。

そして、またどこかで、守られていることを知るだろう。

 

歩き出した背に、陽があたたかく降りそそぐ。

まだやわらかなその光の中、風だけが、どこまでもそばを離れなかった。

 

どこへ行くのでもない道を、

春とともに、ただ、ゆく。




誰に知られるでもなく、静かに笑みをたたえ続けるものが、この世界には確かに存在している。
それらはときに、掌ほどの木の形をしていたり、土の隙間から伸びる小さな花だったり、あるいは、風のようにすぐに過ぎ去ってしまう気配だったりする。
大きな意味や物語はそこになくても、心がわずかにゆるむ瞬間は、確かに守られていたという印だと思う。
そしてまた、歩いていく。
いつかの微笑みに、またどこかで出会うために。
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