空気はまだ冬の名残を含みながらも、土の匂いがやわらかく立ちのぼり、どこか懐かしい気配が漂っていた。
この地を歩いたとき、掌に残ったのは木のぬくもりだった。
言葉にしがたい感情が、ひとつの形として指先に伝わってきた。
それは「出会い」と呼ぶにはあまりにささやかで、「記憶」と言うには少し早すぎる。
けれど、確かにそこに在った微笑みは、ずっと前から、ここに来るのを待っていてくれたような気がした。
湯けむりが、春の空気をやわらかく撓ませていた。
土の匂いに少し湿った木肌の香りが混じり、川べりの細い道を歩くたび、足もとに咲く小さな白い花が音もなくゆれていた。
朝の光はまだ細く、背を丸めるようにして指先に触れた木の皮は、つめたく、けれどどこか体温を宿しているような感触を残した。
水音は絶え間なく、しかし声を持たない。
石と石の隙間にあたるたびに、その沈黙に似た囁きが、耳の奥の奥まで染みこんでくる。
ここでは風さえ言葉を使わず、ただ、まぶたの裏をなでるように通り過ぎてゆく。
山のひだに抱かれたこの小さな湯の里には、笑うことを忘れない木人形たちがいると、どこかで聞いた。
手のひらほどの大きさの彼らは、木の肌を持ち、けれど春になると、ひとりでに首をかしげて微笑むという。
山の湯に近づくにつれて、地に満ちる気配がやわらかくなる。
土の色も明るくなり、道ばたの石に苔が宿り、昼間の陽をすこしずつ吸い込んでいる。
石の角が丸いのは、時が慈しみをもって撫でたからだろうか。
それとも、雪解け水が幾度となく通り過ぎたからだろうか。
古びた木の小屋のそばに、あたたかい蒸気が立ちのぼっていた。
屋根の端に絡まるつたの葉が、春風に震えていた。
戸を押すと、きしむ音が背骨にひびく。その音さえも、どこか懐かしい。
中は静かだった。
柱のあいだから漏れる光に、細かな湯けむりが漂い、ひとつひとつの粒が空中で踊っているようだった。
木の香りに混じって、やわらかな硫黄の匂いがかすかに鼻をくすぐる。
湯のほとりに、小さな棚があった。
そこには、いくつもの木人形が並べられていた。
すべてが微笑んでいた。
まるで、何か大切なことを知っているかのように。
その中のひとつを、そっと手に取った。
指先に伝わるぬくもりは、湯の熱ではなかった。
まるで、何かの記憶が木肌に染みついているような、やさしく、かすかな体温。
小屋の外に出ると、陽は少し高くなっていた。
光が地面を斜めに撫で、石段の隙間からは細く青い芽が顔を出していた。
ひとつの季節が、静かに次の季節へと橋をかけてゆく。
手の中の木人形が、春の光に透けていた。
笑っていた。
何も語らず、ただ、そこに在るというだけで、なぜだろう、ほんのわずかに、胸の奥がゆるむ。
声にならない何かが、そっと、呼吸の隙間に溶けていく。
足もとに伸びる影が、いくぶん濃くなっていた。
光と影のあわいを渡るとき、時間は少しだけ静まりかえる。
耳に届く水音も、木の葉がすれるささやきも、まるで深く息を呑んでいるように。
肩にかけた布が、風を受けてわずかにふくらむ。
温もりを帯びはじめた空気の中に、まだ冷たさの名残がまじっていた。
まるで目をこすりながら目覚める、春そのもののように。
奥へとつづく山道の先、誰に見つけられることもなく、ぽつりと佇む祠があった。
朽ちかけた木の鳥居に、蔓草がからまり、薄い若葉が陽を透かしている。
石段には、苔がしずかに根を張り、ひと足ごとに、過ぎてきた季節が靴の裏から伝わってくるようだった。
祠の前に、ふたたび、あの木人形たちがいた。
小さな木箱のなかに、春の陽をそのまま削ったような顔をして、並んでいた。
すこし首をかしげた子。
すこし口元のゆるんだ子。
ひとつとして同じ顔はなかったのに、どれもが同じように、だれかを信じているような目をしていた。
ふいに、うしろで風が動いた。
枯れ枝が揺れ、鳥の羽ばたきが聞こえた。
木人形のひとつに手を添えた。
そっと指を添わせると、木の肌の彫り跡が静かに伝わってくる。
ひとの手が、時間をかけて刻んだ線。
その深さも、迷いの跡も、すべてがそこにあった。
けれど、それを覆うように、すべての表情が、やさしく笑っていた。
誰がこれを彫ったのか。
なぜここに残したのか。
知らなくてもよかった。
けれど、わかることがあった。
この笑みは、祈りのかたちだった。
春を待ちわびる長い冬の夜に、だれかがぬくもりを託して刻んだ、小さな命のまなざし。
両手にそっと包んだとき、木の匂いが、すこしだけ指先に移った。
目を閉じると、その香りの奥に、ぬれた土と、枝を擦る音と、遠くに灯る灯の気配がまざりあっていた。
帰る場所のない夜が、世界にやってくることは、幾度もある。
けれどこの笑みを見ていると、不思議と、そのすべてがやわらかく溶けてゆく気がした。
まるで、掌の中に、ひとつの小さな守り神を宿したかのように。
ひとつの息を深く吐き、また歩きだす。
陽は、山の端へと傾いていた。
けれど、空はまだ青かった。
光が消えるには、まだ幾ばくかの猶予がある。
背を押すように、春の風がまた吹いた。
手の中の木人形が、音もなく、微笑みを深めたような気がした。
道はつづいている。
声なき声を、空に返すように、湯けむりがゆらりと昇っていた。
なにも語らぬその煙さえも、どこか祝福のようだった。
祠の影が、いつのまにか、こちらを見送る形に伸びていた。
それに気づいたとき、ふと足もとを見た。
一輪の花が咲いていた。
誰にも見られず、誰にも踏まれず。
けれど、確かにここにいた。
微笑んでいるように見えた。
何も持たないくせに、すべてを受け入れるもののように。
そっと、その隣に、拾った木人形を置いた。
見知らぬ誰かが、またいつか、それを見つけるだろう。
そして、またどこかで、守られていることを知るだろう。
歩き出した背に、陽があたたかく降りそそぐ。
まだやわらかなその光の中、風だけが、どこまでもそばを離れなかった。
どこへ行くのでもない道を、
春とともに、ただ、ゆく。
誰に知られるでもなく、静かに笑みをたたえ続けるものが、この世界には確かに存在している。
それらはときに、掌ほどの木の形をしていたり、土の隙間から伸びる小さな花だったり、あるいは、風のようにすぐに過ぎ去ってしまう気配だったりする。
大きな意味や物語はそこになくても、心がわずかにゆるむ瞬間は、確かに守られていたという印だと思う。
そしてまた、歩いていく。
いつかの微笑みに、またどこかで出会うために。