泡沫紀行   作:みどりのかけら

1732 / 1747
泡沫の層がまだ遠くに揺れている境目に立っていた。
足元の地面は確かさを装いながら微かに沈む。
風は名を持たず、ただ肌の表面を撫でて通り過ぎた。


身体の内側で時間が薄く剥がれ落ちていく感覚があった。
呼吸のたびに、世界との距離がわずかに変質する。
遠い海の気配だけが、方向の代わりとして残っていた。


歩き出すというより、境界に滲み込むように前へ進んだ。
背後の気配はすでに輪郭を失い始めている。
その消失を確かめることなく、ただ足を運んだ。



1732 静海に刻まれた風の棚田界

泡沫の層を踏みしめ、静潮段丘界へと入った。

湿った風が皮膚を薄く削るように流れていく。

遠い海は声を持たず、ただ揺らいでいた。

 

 

足裏に砂ではない細かな礫が沈み、歩みを遅らせる。

重さのある湿気が膝の裏へ滞留していく。

地面と呼べぬ地層の上で均衡を探した。

 

 

風棚と呼ばれる段丘は層ごとに温度が異なっていた。

指先をかすめる空気は冷えと熱を交互に抱えている。

その差異が視界に揺らぎの縞を描いていた。

 

 

崖縁へ近づき、海の静圧を肌で受け取った。

遠景の波は音を持たず、影のように折り重なる。

胸の奥に微かな空白が生まれ続けていた。

 

 

段丘の裂け目には乾いた塩の記憶が沈んでいる。

そこを通る風だけが過去の輪郭をわずかに撫でる。

その痕跡に触れながら歩を進めた。

 

 

膝から下が冷えに侵され、感覚が薄くほどけていく。

それでも歩みは止まらず、地形の呼吸に沿って揺れた。

自分の輪郭が風と混ざる錯覚に身を委ねた。

 

 

空は薄い層状の光で覆われ、時間の境目を曖昧にする。

その下で、存在の重さを静かに測り続けた。

段丘の影が足元へゆっくりと折り返される。

 

 

掌に触れる岩肌は乾きと湿りを同時に抱えていた。

その矛盾した温度が皮膚の奥へゆっくり浸透する。

境界が曖昧になる感覚に立ち尽くした。

 

 

海からの風は層をなし段丘を登ってくる。

その流れは目に見えぬ階段として空間を撫でていた。

その階層に足を置きながら前へ進む。

 

 

喉の奥に塩を含んだ空気が重く沈殿する。

呼吸のたびに身体は少しずつ海へ近づいていく。

自分が地形に溶ける速度を確かめていた。

 

 

段丘の上層では光が薄く折りたたまれ、白く滲む。

遠い水平線は存在の輪郭を拒むように揺れている。

その曖昧さが歩行の感覚を増幅させた。

 

 

足首に絡む風圧が方向を失わせる瞬間ある。

そのたびに地面の確かさだけが唯一の支えとなる。

揺れながらも均衡の糸を手放さなかった。

 

 

段丘の裂線から微かな光の粒が漏れ出している。

それは過去の気候が残した残響のように漂う。

その粒子に触れずに歩き過ぎた。

 

 

肩に降りかかる湿度が重力の方向を変えていく。

身体は傾きながら新しい水平を探す。

歩くたびに自分の軸が書き換えられるのを感じた。

 

 

崖下からの風は音を持たず、圧だけを残して消える。

その圧は背骨を通り抜け、歩幅を微かに変える。

風の意志に従うように進路を修正した。

 

 

指先の感覚が薄れ、世界との距離が曖昧になる。

それでも地面の冷たさだけは確かに残っていた。

その一点に意識を縫い留めて歩いた。

 

 

段丘の最上層に近づくほど、空は透明さを増していく。

そこには境界という概念が残っていない。

消えかける輪郭の中で自分を保っていた。

 

 

胸の奥で鼓動が風景と同じ速度へと緩んでいく。

身体は外界と内側を区別しなくなっていた。

ただ流れの中に置かれた一点として存在した。

 

 

夕刻に似た光が段丘全体を静かに沈めていく。

風棚はひとつの記憶として海へ溶け始めていた。

その消失の縁を見届けながら歩き続けた。

 




段丘の重なりは背後で静かに崩れ、薄い層へと戻っていた。
歩いてきたはずの距離は、記憶の表面に沈殿している。
風はすでに別の方向へ流れ、名残だけが皮膚に残る。


身体の境界はゆるやかにほどけ、重さの所在が曖昧になる。
地面の冷たさだけが、かつての接触を証明していた。
それ以外のすべては湿度の中に分解されていく。


遠い水平の層に、まだ歩みの余白が揺れている。
そこへ戻る道は存在せず、ただ残響だけが続いている。
静かな空白の中で、風だけが次の層を探していた。
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