泡沫紀行   作:みどりのかけら

1733 / 1747
湿霧の縁に立つと、低地はまだ名を持たぬ呼吸のようにゆっくりと揺れていた。
足裏には乾ききらない地の記憶がまとわりつき、歩みの決意を静かに試すように沈む。
空は薄く裂けた膜となり、光は直接ではなく層を通して滲み込んでくる。


湿った風は横からではなく、地面の奥から押し上げるように触れてくる。
皮膚は境界を失い、外と内の区別が遅れてほどけていく感覚だけが残る。
私はその遅延の中で、まだ始まりとも言えぬ場所へ足を進める。


遠くの低みでは水とも霧ともつかぬものが静かに集まり、重さだけを増している。
その気配は視界ではなく骨の奥に触れ、進行方向をゆっくりと歪める。
私はその歪みを避けず、ただ歩行という唯一の律動に身を預ける。



1733 潮霧に包まれる低地の夢層

潮霧の低地へ足を踏み入れるただの朝だった。

足裏に沈む湿砂は重く歩行記憶をかすかに吸う。

空は裂けた膜のように広がり白光がかすかに滲む。

 

 

風は水平に流れ皮膚を冷たく静かに撫でる。

私は名を持たぬ地層をただ理由なく進む。

遠い湿原から温度差の波がゆっくり押し寄せる。

 

 

足跡は潮霧に触れ輪郭を失い静かに消える。

呼吸は重く湿り喉奥に塩のかすかな記憶が残る。

 

 

低い丘は水を含み沈黙のまま静かに眠る。

斜面には歩行の残響が沈殿しているかすかに。

指先に冷たい圧が骨の奥へ深く届く。

 

 

空気は層をなし時間の厚みを静かに示す。

私は層を乱さぬよう慎重に足を運ぶ。

湿度は衣の内へ静かに侵入し境界を曖昧にする。

 

 

遠景の影は存在でなく余韻としてかすかに揺れる。

音は遅れて届き空間で静かにほどける。

 

 

潮の匂いが地面から逆流し静かに満ちる。

匂いは記憶の輪郭をゆっくり溶かす。

 

 

霧の奥で温度の裂け目がかすかに明滅する。

私は理由なく裂け目へただ向かう。

足は地層の意志のように静かに動く。

 

 

水面のない水が靴底にかすかにまとわる。

触覚は境界の崩れを静かに告げる。

 

 

空は重く上昇の概念を静かに失う。

肩に見えぬ圧が積もり歩行を静かに鈍らせる。

 

 

霧は粒となり肌を叩き輪郭を静かに確かめる。

痛みではなく在ることを静かに示す触れ方だ。

 

 

湿った壁の気配が立ち空間を静かに塞ぐ。

近づくほど形は静かにほどける。

 

 

地面は呼吸するように静かに上下する。

律動に足は同調し意思は静かに薄れる。

 

 

風は過去の温度を運び肌に静かに戻す。

温度は言葉なく静かな残響となる。

 

 

時間の境目へ足を沈め静かな抵抗を感じる。

境目は泥のように形を静かに変える。

 

 

霧の裂け目から光が静かに漏れる。

光は意味なく静かに滲む。

 

 

足元の水音は遅れて静かに追う。

影が遅延するように静かに感じる。

 

 

低地は巨大な呼吸体として静かに脈動する。

私は呼吸に取り込まれ外を静かに失う。

 

 

皮膚奥で振動が続き深へ静かに浸透する。

それは記憶でも予感でも静かにない。

 

 

霧の層を抜け景色は静かに変質する。

変質には静かな抵抗がない。

 

 

歩みを止めず境界を静かに渡る。

終わりではなく静かな続きが広がる。

 

 

潮霧の低地は今も足裏で静かに揺れる。

 

 

霧の奥で低地の脈動がわずかに強まる。

足裏の沈みは深くなり歩行の輪郭が曖昧にほどける。

私はその変化を抵抗なく受け入れながら進む。

 

 

湿った空気は内側から静かに圧を増す。

皮膚と世界の境界は溶け合い判別が遅れていく。

遠い残響のような温度差だけが進行を示す。

 

 

やがて霧の層は薄く裂け新しい湿原が現れる。

そこには始まりでも終わりでもない静かな広がりがある。

私はその中へ歩みを預けながら境目の微光を背に遠ざける。

 




潮霧の低地を抜けたはずの足は、まだ湿った重さをわずかに引きずっていた。
皮膚に残る温度差は地形の記憶のように消えきらず、静かに遅れて追いかけてくる。
振り返っても境界は見えず、ただ空気の濃度だけが変わっている。


歩行は軽くなったのではなく、支えを失ったように曖昧に続いていく。
内部に残った潮の気配が、思考より先に呼吸へ混ざり込んでくる。
私はその残響を持ったまま、次の層へと知らぬうちに移行している。


遠ざかったはずの低地は、記憶の奥でまだ微かに脈動を続けている。
それは過去でも現在でもなく、歩みの延長として静かに存在している。
私はその継続の感触だけを頼りに、名のない先へと歩き続ける。
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