泡沫紀行   作:みどりのかけら

1742 / 1747
薄明の層はまだ完全に開かれず、地表は半ば眠りの形を保っていた。
私はその境界に立ち、風の厚みだけを頼りに進行の方向を測る。
足元の湿りは時間の残骸のように静かに沈んでいる。


遠い平野は呼吸のたびにわずかに膨らみ、縮むような錯覚を繰り返す。
その揺らぎの中に、名前を持たない道筋がいくつも重なって見える。
私はその重なりを踏み分けることなく、ただ通過する準備をする。


空の色は均質ではなく、薄い濁りが層となって幾重にも重なっていた。
そこから落ちてくる光は硬さを失い、地面で静かに崩れていく。
崩れた光の粒は、まだ歩き出していない私の足元に滲む。



1742 風渡る穀の大地

薄い朝光が境いの平野を舐めるように広がった。

私はその湿った光の層に足を沈め、旅の始まりを確かめる。

湿度の膜が肌に貼り歩行を曖昧にする。

 

 

草は夜の冷えをまだ抱え、靴底に重い抵抗を返す。

風は低く横たわり、肌の表面をゆっくりと削っていく。

抵抗はほどけ足音だけが内側に響く。

 

 

遠くの地面は揺らぎ、熱の残像が薄い膜となって漂う。

その膜を通過するたび、呼吸は微かに濁りを帯びる。

熱の層は沈み視界の奥で静かにほどける。

 

 

湿った土の匂いが足首を包み、記憶の輪郭を曖昧にする。

私はその曖昧さに身を委ね、歩幅を一定に保つ。

曖昧さは歩幅を変えず均衡を保つ。

 

 

草むらの奥には誰かの気配が沈殿し、温度差だけが残る。

その差異は指先に触れず、しかし確かに重さとして在る。

気配は形を失い温度だけが残る。

 

 

空は薄く裂け、光は幾重にも屈折して地表へ降りる。

私はその屈折の中を進み、影の形を踏み越えていく。

屈折光が指先をかすめ輪郭を削る。

 

 

足裏に伝わる地の鼓動は遅く、しかし途切れない。

その律動に合わせるように、歩行は無意識に整えられる。

鼓動は靴底から身体へ拡散する。

 

 

風は一度だけ強く吹き、草原全体を伏せさせた。

その瞬間、私は身体ごと水平に押し流される感覚を得る。

押し流れの後に静かな戻りが来る。

 

 

空気の密度が変わり、視界の奥に透明な壁が現れる。

その壁は触れる前に崩れ、冷たい余韻だけを残す。

余韻は漂い進行方向を曖昧にする。

 

 

私は歩き続けることで、境界が薄れる瞬間を知る。

境界は消えるのではなく、ただ重なりを増していく。

重なりは増し世界は薄い層へ変わる。

 

 

草の先端には微細な光が宿り、震えながら消えていく。

その消失を追う視線は、やがて内側へと沈む。

視線は沈み名のない深度に触れる。

 

 

地平線は静かに湾曲し、世界はゆっくりと折れ曲がる。

私はその曲率の中で、方向感覚を手放していく。

失った方向のまま身体は前へ進む。

 

 

足元の泥は柔らかく、歩くたびに過去を吸い上げる。

その吸引は抵抗なく、むしろ安堵に似た重さを持つ。

泥は過去を均し静かに放つ。

 

 

風の間に微かな音の残滓があり、形を持たず漂う。

私はその残滓に触れず、ただ通過するだけの存在となる。

残滓は風の内側で形を変える。

 

 

光は次第に傾き、長い影が足元を覆い始める。

影は冷たくなく、むしろ体温の延長のように感じられる。

影は体温の延長として伸びる。

 

 

境いの平野は沈黙を深め、空気の層が幾重にも重なる。

私はその層を裂かず、ただ通り抜ける選択を続ける。

層の隙間で空気はさらに薄くなる。

 

 

遠方に見える揺らぎは、まだ名を持たない地形の胎動だ。

それに近づくたび、足取りはわずかに軽くなる。

軽さは理由なく足元に降る。

 

 

夕光は地表を薄く剥がし、世界の輪郭を再び描き直す。

私はその再描写の中に溶け、旅の続きへとわずかに沈んでいく。

沈み込みは続き次の層へ連なる。

 




夕の傾きが極まる頃、平野はひとつの呼吸を終えたように静止した。
私はその静止の内側に入り込み、歩行の輪郭さえ薄くしていく。
風はもはや方向を持たず、全方位へと均されていた。


遠くに見えていた揺らぎは、すでに地形と区別できない密度へ溶けていた。
私はそれに触れず、しかし確かに身体の内側でその存在を受け取る。
境界の感覚は遅れて剥がれ落ち、地表へと沈んでいく。


最後に残ったのは、歩いたという事実ではなく、歩行に似た余熱だけだった。
それは風に混ざり、草の間に散り、やがて平野そのものへ還元される。
私はその還元の途中で、すでに次の層へと滲み始めている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。