泡沫紀行   作:みどりのかけら

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朝の空気にはまだ冬の名残が残り、足元の土は静かに目覚めを待っていた。

歩いていたのは、記憶の底に沈んだ風景のような場所。
ひとひら、またひとひらと降りてくる花びらが、何も語らずに語りかけてくる。
その気配に導かれるようにして、ひとつの時間に触れた。

それは、名もなく過ぎていく春のなかに、ほんのわずかだけ滞在した記録。


0176 薄紅に舞う時の記憶

苔むした石の輪郭をなぞるように、風が低く渡っていった。

冷たさの名残を抱えた空気が、指の間をすり抜けてゆく。

ひとつ、またひとつ、花の影が地に降りる音がした。

 

土は柔らかく、淡い湿りを帯びていた。

靴底の沈み込みがかすかに春の鼓動を伝えてくる。

斜面に沿うように、桜が並んでいた。

幹は深く裂け、長く風雪を見送ってきたことを物語っていた。

枝は空を知らぬまま、ただ天を目指すように伸びていたが、その先に咲く花たちは、まるで地を想って舞い戻ってきたもののように、あまりにも儚かった。

 

花びらの色は、薄紅というにはいささか淡く、けれど白にしてはあたたかみを帯びている。

陽が射すたび、ひとつずつ光を含んで揺れ、その影が地に小さな海を作る。

その海を踏みながら歩いていると、どこか遠い昔のことを、忘れた夢のように思い出しそうになる。

 

水面に映る空が、花の影にゆらめいていた。

音のない時間が流れた。鳥の羽ばたきさえ、枝の向こうでひそやかに溶けていった。

 

ゆるやかに登る坂の途中、枝の隙間から陽が差し込み、花びらが舞い降りる。

その一枚が頬に触れた瞬間、かすかに匂いがした。

それは香と呼ぶにはほとんど存在を持たず、しかし確かに、過ぎた季節を思わせるやわらかな感触だった。

 

木の根元には、苔がまるで羽衣のように広がっていた。

ふと足を止め、手を添えてみる。

冷たく、けれど心地よく湿っていた。

手のひらから伝わる温度が、静かに時をほどいてゆく。

 

いくつかの幹には、ひとひらの花びらが張り付いていた。

それはまるで、木が自ら咲かせた最後の記憶のように見えた。

誰にも知られず、音もなく落ち、偶然に、あるいは意志のように、そこに留まったのだろう。

 

川の音がかすかに聴こえてきた。

水を打つのは花びらか、それとも風か。

足元には、流れを覆い尽くすように無数の花びらが重なっていた。

光に照らされ、透けるような花の群れが、ゆるやかに流れに乗って揺れていた。

 

手を差し入れれば、そのすべてが壊れてしまいそうなほど、ひそやかな美しさだった。

 

枝に咲く花と、水面に浮かぶ花、そして土に帰る花。

そのどれもが、ほんの短い瞬きを繰り返しながら、ひとつの記憶として刻まれていく。

 

空はまだ青くはなく、どこか薄墨のような色をしていた。

それでも、花の色だけが、この世界に確かに春が訪れたことを告げていた。

 

やがて、ひときわ太い幹の下で、腰をおろす。

背を預けた木の温度は、陽の温もりではない。

それは長い年月をかけて蓄えられた、大地の記憶だった。

 

風が、静かに枝を鳴らす。

その音が耳の奥でやさしく反響し、心のどこかをそっと撫でてゆく。

 

ひととき、目を閉じた。

そのまぶたの裏に、舞う花びらの白さが焼きついていた。

 

空気が変わった。

風の流れが、どこか遠くの季節をまとって吹きすぎていく。

振り返ると、道はもう桜の絨毯に覆われていた。

 

花が散る音は聞こえない。

けれど、その静けさに耳を澄ませていると、微かなざわめきが胸の奥でひらく。

それは遠い日の笑い声か、まだ誰にも知られぬ春の息吹か。

 

土の香りが、ふと濃くなる。

どこか懐かしく、そして確かに今この場所に立っていることを教えてくれる匂いだった。

風が頬をなでるたびに、肌が思い出す。旅路で過ごしてきたさまざまな季節の名残。

雪の冷たさ、夏草のざらつき、秋の落葉の沈黙。

そのすべてが、この一瞬に重なっていた。

 

陽が少し傾き、花びらの影が伸びはじめる。

木々の隙間から射し込む光は、まるで宙に吊るされた細い糸のように、肌に触れることなくそこにあった。

 

足元で、小さな石が転がる音がした。

それはこの静けさのなかでは、あまりにも確かな音だった。

目を凝らせば、土と苔のあいだから、草の芽がひとつだけ顔を出していた。

花のように華やかではないけれど、その小さな命の存在が、なぜか胸を深く揺らした。

 

長く続く並木の先、丘のように盛り上がった土地の上に、一本だけ枝を大きく広げた木があった。

その枝先は、まるで空と話をしているように見えた。

どの枝も、どの花も、同じ空を仰いでいたが、この木だけは、空の奥を見ているようだった。

 

そのもとに立ち、見上げる。

花のひとひらが、額に触れる。

その冷たさに、春の終わりを知る。

 

辺りはわずかに翳りはじめ、光はやわらかな金色を帯びてきた。

花の白さが、その光に溶けていく。

ひとつひとつの花が、空へ帰っていくようだった。

 

歩を進めるたびに、何かを置いていくような感覚があった。

それが思い出か、まだ言葉にならない感情か、それともただの風の一部だったのかはわからない。

けれど、その感覚はたしかに残った。

 

誰のものでもない、記憶。

誰に伝えるでもない、ひととき。

春は、それをまるで宝物のようにそっと差し出してくる。

手を伸ばしても掴めないが、肌で、呼吸で、それを知る。

 

見上げれば、花のむこうに光があった。

その光は強くもなく、優しくもなく、ただ静かに、そこに在った。

 

ふと、足を止める。

その場で目を閉じれば、風の音、花の揺れ、遠くの水の音が、ひとつの旋律のように響き合っていた。

世界が、いまだけ、その姿を惜しむように震えていた。

 

やがて、光が傾き、影が長く地を這う。

花の影は、地に溶け、風にほどけて、空へと戻っていく。

名もなき時間のなかで、春はそっと姿を変えていく。

 

それでも、手のひらには、あの木の温度がまだ残っていた。

頬には、花の香りの名残がかすかに漂っていた。

目には、光に透けた薄紅の記憶が、静かに、静かに、滲んでいた。

 

この道を離れても、きっとそれは消えないだろう。

音のない記憶として、どこか深い場所に沈んでいく。

そしていつか、ふいに風が吹いたとき、あのひとひらのように、思い出されるだろう。

 

それは、春の名をした、沈黙の贈り物だった。




立ち止まった場所には、もうあの木の影も、花の匂いもなかった。
けれど、土の感触も、空を透かす花の色も、まだどこかに残っているような気がする。

春はいつも短くて、けれど何かを確かに置いていく。
その何かを言葉にしようとしても、すぐには形にならない。

だからこうして、静かに綴っておくことにした。
舞い落ちたひとひらのように、そっと。
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