遠い谷の気配が皮膚に先触れとして触れ、歩みの速度をわずかに鈍らせる。
足元の土は柔らかく沈み、境界が曖昧なまま奥へと誘っていた。
碧い流れの噂は風の層に混じり、形のない重さとして耳の奥に残る。
それは音ではなく圧の偏りであり、視界の端をわずかに歪ませていた。
歩くたびに呼吸が深くなり、内側の輪郭が静かに緩んでいく。
峡谷へ近づくほど、時間は薄く剥がれるように遅延していく。
指先の温度だけがやけに鮮明で、他の感覚は淡く沈んでいった。
まだ見ぬ水の気配が、すでに身体の奥へ入り込んでいた。
泡沫の層を踏み抜くように、薄明の峡谷へ足を沈めた。空気は水底の重さを帯びる。
湿った空気が皮膚にまとわり、骨の内側まで冷えを運ぶ。指先だけが取り残される。
碧い流れは音を持たず、ただ光の裂け目として横たわる。時間の流速を変えていく。
足裏に触れる礫の重さが、時間の緩慢さを思い出させる。沈黙が踏むたび増す。
崖肌には古い水痕が縞となり、触れると微かに脈打った。石の記憶が滲む。
振動は指先から腕へ伝わり、歩行の律動を乱していく。身体の軸がずれる。
谷底の風は上昇し、胸郭の奥を空洞のように撫でていく。思考は霧状にほどける。
呼吸のたびに湿度が増し、肺の輪郭が曖昧になっていった。水の気配が混じる。
碧流の表面には古竜の背鱗のような光の層が浮かぶ。形は見るたび変わる。
輝きに視線を奪われ、足の進行は幾度も遅れた。地面が遠ざかる錯覚。
岩陰から滴る水は冷たく、首筋に落ちて記憶を剥がす。思考の層が乱れる。
剥がれ落ちた記憶は霧となり、谷の底へ沈んでいく。静寂が厚みを増す。
歩みを進めるほど、地面は柔らかく時間を吸い込んでいく。足跡は消える。
靴底の感触は曖昧になり、境界のない泥へと変質した。方向性が薄れる。
遠くの岩壁に、かつての爪痕のような影が刻まれている。消失と出現を繰り返す。
影に触れようとすると、指先は空間ごと冷え固まった。現実の密度が変わる。
碧流の中心には、沈黙を抱えた古竜峡の心臓があるという。水面だけが脈打つ。
鼓動は耳ではなく、骨伝導として身体を震わせた。内部から響く。
足を止めると、谷は逆にこちらへ歩み寄るように圧を増す。境界が近づく。
背後の空気が重く閉じ、退路という概念が薄れていった。振り返りが遅れる。
水面に触れると、指先から青い冷たさが逆流してくる。内部へ侵入する。
逆流は腕を満たし、思考の輪郭を曖昧にほどいた。意識が滲む。
岩棚の上には、誰のものとも知れぬ体温の残滓が残る。通過の証だけがある。
温度差だけが、見えない存在の通過を示していた。空間が歪む。
風はときおり低い唸りを帯び、峡谷の骨格を共鳴させる。岩壁が鳴る。
共鳴に身を委ねると、身体の重心が宙に浮いた。接地感が消える。
碧流の裂け目は深く、覗き込むほどに底が遠ざかっていく。落下が遅れる。
視線は水に吸われ、まぶたの裏側へと沈殿していった。残響が残る。
歩行の痕跡はすぐに水気に溶け、何も残さず消えていく。存在が薄れる。
残らないことものが、この峡谷の法則のように感じられた。消失が常態。
岩肌をなぞると、微かな熱が指に遅れて追いついてくる。時間差が揺れる。
遅延は時間の層を示し、現在という輪郭を揺らした。境界が曖昧になる。
古竜の名残と呼ばれる空洞が、谷の奥で息を潜めている。圧力として在る。
気配は音ではなく、圧力の偏りとして皮膚に触れた。内側で反響する。
やがて碧流は静かに幅を失い、細い光の線へと収束する。密度が集約する。
私は線の上を歩き続け、境目のない朝へ溶けていった。意味が解体する。
碧流の裂け目を抜けた後、空気は軽さを失ったまま静止していた。
歩みは続いているはずなのに、足裏の確かさだけが遠ざかっていく。
峡谷の圧は背後に残り、薄い膜のように離れようとしなかった。
記憶は水に似た質へ変わり、掴もうとするたび指の間から零れ落ちる。
かつて触れた岩の冷たさだけが、遅れて胸の奥で再生される。
時間はすでに順序を失い、断片として漂っていた。
遠ざかる碧の残響は、やがて身体の内部で微かな振動へと変わる。
振動は歩行と同じ律動を保ちながら、どこへも向かわない。
境界の記憶だけが、静かに終わらずに続いていた。