泡沫紀行   作:みどりのかけら

1771 / 1804
潮のまだ名を持たない風が、境目のない空から降りていた。
私は気配を足裏で受け取り、地面の柔らかさが時の層であることを知る。


遠くも近くも定まらぬ地平が、湿った光を薄く折り重ねて揺れていた。
歩みを進めるたびに、地表は記憶のように沈み、沈黙の厚みだけが増していく。


名もない旅路の初めには、常に微かな重さが付き従っていた。
それは身体ではなく、時間の側から寄り添う圧として背に触れている。



1771 海辺に眠る箸の精霊殿

潮の匂いを抱いた風が、砂より細い時の粒を足首へ寄せた。

粒は冷たさではなく、遅れて届く温度として肌へ残った。

 

 

波打ち際には、細長い木片を祀る小さな殿が眠っていた。

扉は閉じられているのに、隙間から淡い艶だけが静かに滲んでいた。

 

 

私は濡れた石を踏み、重さの違う影を足裏で測った。

乾いた場所ほど深く沈む感覚があり、歩幅は自然と細くなる。

 

 

殿の周囲には、対になった細枝が幾重にも並んでいた。

それぞれに異なる色の光沢が宿り、季節を塗り重ねた静けさを映している。

 

 

指先で一本へ触れると、木目は水面のように揺れた。

硬さの奥から柔らかな抵抗が返り、掌の熱だけが静かに吸われていく。

 

 

どこにも姿はないのに、箸を守る精霊の余韻が潮風へ溶けていた。

気配は音にならず、湿度だけを少し持ち上げる。

 

 

私は息を深く沈め、胸へ寄る塩気をゆっくり受け止めた。

肺の奥では古い年輪のような匂いが薄く重なり合う。

 

 

壁には幾層もの漆色が眠り、闇より細い光を抱いていた。

近づくほど艶は遠ざかり、離れるほど温度だけが寄り添う。

 

 

砂へ膝を預けると、小さな粒が衣へ静かに食い込んだ。

痛みではなく、時間の重みだけが布越しに伝わる。

 

 

寄せる波は境界を描いては消し、跡へ透明な息を残した。

足先を浸すたび、歩いてきた日々が軽く削られていく。

 

 

殿の奥には、無数の箸が眠り木の林を形づくっていた。

一本ごとに異なる光が潜み、触れずとも指先へ細かな震えを届ける。

 

 

私は掌を胸へ重ね、体温が風へほどける速さを数えた。

数は途中で意味を失い、代わりに淡い明るさだけが残る。

 

 

床へ落ちた影は細く長く、二本並んで潮へ伸びていた。

形は食卓ではなく、祈りの姿勢だけを静かに思わせる。

 

 

どこかで残された温度差が、壁の艶へ淡く映り込んだ。

誰かの痕跡ではなく、時ものが触れた跡のようだった。

 

 

肩へ降りる風圧は軽いのに、背中では深い水を背負う感覚が続く。

歩みを止めても旅だけは足裏で静かに進んでいた。

 

 

木片の表面には幾重もの色が潜み、角度を変えるたび季節を塗り替えた。

私は移ろいへ指を近づけ、触れぬ距離の温かさを受け取る。

 

 

やがて殿を離れると、砂は先ほどより柔らかく沈んだ。

潮の香りは薄れず、足跡だけが微かな光を帯びて続いていく。

 

 

振り返れば、海辺に眠る精霊殿は泡へ溶ける境目のように霞んでいた。

私は時の微光を靴のない足裏へ抱え、次の名もない浜へ静かに歩き続けた。

 

 

潮が引いたあとの砂は乾ききらず、足裏へ細かな冷たさを幾筋も刻んだ。

感触は消えかけた艶を静かに受け継ぎ、掌に残る木目の記憶と重なって揺れる。

 

 

遠い波際では、対になった光が寄り添いながら泡へ溶け、寄せては離れる境目だけを繰り返していた。

私は頬をなでる湿った風へ身を預け、胸の内側でほどける重さを歩幅へ静かに移していく。

 

 

やがて浜は薄明の粒へ姿をほどき、精霊殿も潮霧の奥で名残だけを残した。

私の足跡は風に消えながらも、時の境目に触れた温度だけを抱え、次の微かな景色へ続いていった。

 




海辺の縁はすでに輪郭を失い、歩いた痕跡だけが薄い熱として残っていた。
私は熱を靴のない足で確かめ、消えかける境界に身を預ける。


精霊殿のあった場所には、細い光の筋だけが残り、潮の呼吸に溶け続けていた。
そこに触れるたび、木の記憶は水へ戻り、重さは軽さへ反転していく。


旅の終わりという感覚は訪れず、ただ次の沈黙が静かに足元へ広がっていた。
私は広がりの中へ歩みをほどき、時の微光とともにさらに遠い浜へ向かう。
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