泡沫紀行   作:みどりのかけら

1774 / 1804
薄い湿度が地表の上で層をなし、まだ名付けられない平野が沈黙している。
風は始まりを持たず、ただ皮膚の縁を試すように通り過ぎていく。
歩行の前触れとして、足裏に残る重さの方向を確かめている。


地面は遠い記憶のように微かに脈を打ち、触れれば崩れそうな柔らかさを帯びている。
空は高さを持たず、温度だけが緩やかに下りてくる気配がある。
呼吸はまだ自分のものでありながら、すでに環境へと溶けかけている。


境界はどこにも固定されず、視線の動きに合わせて形を変えていく。
揺らぎの中へ、静かに足を差し入れる準備をしている。
歩くという行為が、まだ概念として身体の内側に留まっている。



1774 風が歩く平野の呼吸盤

平野の縁に、徒歩で静かに立つ。

時の境目に微かな微光が滲み続けている。

 

 

風は皮膚の上を歩くように湿りを伴い滑る。

圧だけが遅れて身体の周囲に残響する。

 

 

湿った大気が体の輪郭を重く包み込み続ける。

地面は熱を含んだまま静かに呼吸を繰り返す。

 

 

草の先が足裏に触れて細い震えを残していく。

踏み跡はすぐに湿りへ沈み込み消えていく。

 

 

水平の遠さが胸の奥でゆっくりと脈打ち続ける。

空と土の境が曖昧に溶けて一つへ近づいていく。

 

 

残響のような気配だけが周囲に静かに漂っている。

誰の痕跡とも言えない温度差が長く残り続ける。

 

 

風ものが歩行の形を真似て追い越していく。

進むたびに空間が背後へ静かに折り畳まれていく。

 

 

呼吸の内側に湿度がゆっくりと溜まり重くなる。

肺は重さという概念を失い水域のように変わる。

 

 

葦の群れが微細な波を返し続け静かに揺れている。

揺れが足元へと遅れて伝播していく。

 

 

光は輪郭を持たず空間へ拡散し続けている。

見えるものと触れるものが重なり境界を失う。

 

 

脚は疲労というより重力の記憶として重くなる。

歩幅は次第に地面へ吸い寄せられるように縮む。

 

 

昼と影の温度差が皮膚をゆっくり撫で続ける。

境界は冷たさも熱さも持たぬ中間へ沈んでいる。

 

 

土の奥で微かな振動が絶えず続いている気配がある。

それは遠い風の心臓のように低く響き続ける。

 

 

存在しないはずの気配が密度を持って周囲に滞留する。

それに触れずただ通過するだけでいる。

 

 

風の通路が平野の上に見えない線として刻まれている。

そこを歩くたびに空間の形が静かに更新される。

 

 

汗は皮膚からすぐに薄れていき痕跡だけを残す。

残るのは冷えに似た軽い感覚の断片だけである。

 

 

微光はさらに薄くなり輪郭を失いながら漂う。

空はゆっくりと色彩を手放し無の方へ傾く。

 

 

音のない圧が耳の奥にゆっくりと溜まり続ける。

沈黙は広さとして身体全体を包み込んでいく。

 

 

夜の端が湿度とともに地表へ静かに降りてくる。

露の気配が草の先を重くし微細に震わせる。

 

 

平野と同じ速度で輪郭を失い曖昧になる。

境目は歩行の終わりを定義せずただ続いている。

 

 

露の重みが草葉の端に滲み、世界はわずかに傾きを増す。

傾斜は足裏から静かに侵入し、骨の奥へと沈んでいく。

境目の消えかけた平野の上で、まだ歩行を続けている。

 

 

風はさらに密度を失い、触れた瞬間だけ輪郭を思い出す。

微光の残り滓が地表の湿りと混ざり、淡い層を成している。

歩幅はほとんど呼吸と同じ速度へと溶けていく。

 

 

遠くも近くも等しく滲み、視界はただの温度差として広がる。

足元の感触だけが唯一の確かさとして遅れて追いついてくる。

遅延の中に身を預け、終わりのない平野を渡る。

 




湿りは薄くなり、平野はもはや平野という名を必要としなくなる。
風の歩行だけが残り、あらゆる輪郭を均していくように通過していく。
通過の痕跡にすらなれず、ただ温度の差として滲んでいる。


光は最後まで意味を持たず、ただ拡散の癖だけを繰り返している。
足裏に残っていた感触は既に遅れを失い、空間へ溶け戻っている。
歩行という概念は静かにほどけ、境目の中へ吸い込まれていく。


残るものは何もなく、残らないことだけが静かに続いている。
消失の途中でなお歩いている気配としてだけ存在している。
時の境目は閉じず、微光のまま呼吸の外側へ広がり続けている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。