泡沫紀行   作:みどりのかけら

1785 / 1804
雲の縁は、まだ遠い地の呼吸のように淡く震えていた。
揺らぎの手前で、徒歩の歩幅だけを確かめる。
境目という言葉は、すでに湿った空気の中で形を失っていた。


白い稜線は、空へと沈む途中の骨のように見えた。
足元の地は柔らかく、踏むたびに時間が遅れて返ってくる。
遅延が、これから始まる旅の輪郭を曖昧にする。


風はまだ方向を持たず、ただ圧だけが肌をなぞっていた。
圧の中に身を置き、境界へと静かに近づく。
見えない深さが、すでに歩行の内部へ入り込んでいた。



1785 聖嶺の雲海王国

白い稜線の底に、夏の湿気が沈んでいた。

縁を徒歩でなぞり、雲海の息を肌に受けた。

境目の空は薄く裂け、光は泡のように滲んだ。

 

 

聖嶺と呼ばれる高みは、風の圧で形を変えていた。

足裏に伝わる岩の冷えが、思考の輪郭を削る。

湿った残響が揺れ、道の向きだけが曖昧になる。

 

 

雲海の上層には、触れない温度差が漂っていた。

歩みのたび空気は膜となって剥がれ落ちる。

重さのない圧に押され、呼吸の間隔が整う。

 

 

夏の光は鋭く、白山の稜は溶ける銀のようだ。

砂礫の熱が遅れて皮膚へ届き、足元を揺らす。

時間の輪郭が歪み、境目だけが濃く残る。

 

 

雲層を抜けると、空は逆さの湖のように沈む。

静けさに歩幅を合わせ、均衡を保つ。

風は言葉を持たず、圧だけで頬を押し返す。

 

 

岩肌の湿りは、過ぎた存在の痕跡のように冷たい。

触れるたび感覚は遅れ、現実がほどけていく。

見えぬ深さだけが足元へ静かに沈む。

 

 

白い稜線を歩きながら、距離の概念が消えていく。

空気の重さは場所ごとに異なり、足取りを乱す。

揺らぎが歩行ものを曖昧にする。

 

 

霧の中に微かな温もりが残り、余韻だけが漂う。

気配は岩に吸われ、遅れて薄い反響となる。

遅延に耳を澄ませ、方向を測る。

 

 

雲海の裂け目から、夏の光が刃のように差す。

光は肌を抜け、内側で静かにほどけていく。

境界の痛みではなく、存在の薄さを知る。

 

 

稜線の風は形を持ち、手のひらを押し返す。

抵抗により、身体の輪郭だけが残る。

空と地の区別は溶け、歩行だけが続く。

 

 

雲の層は足裏でしか読めず、視界は白に沈む。

温度差だけが方向となり、私を導いている。

差を辿り、迷いの輪を静かにほどく。

 

 

白山の影は雲海の底に沈み、輪郭だけが浮かぶ。

影に触れるように歩幅を刻み続ける。

肩に重さのない圧が乗り、時間が遅れる。

 

 

霧は呼吸のたび形を変え、肺の奥へ流れ込む。

拒む理由もなく、身体の一部へ溶かしていく。

境目という概念はすでに薄れている。

 

 

岩の裂け目から冷気が立ち上がり、足元を洗う。

見えぬ流れが確かに触覚として残り続ける。

不確かな流れへ歩みを委ねる。

 

 

雲海の上では時間が粒のように散っている。

それらを踏みながら、過去と現在が混ざる。

歩行は連続ではなく、断続へと変わる。

 

 

光の薄膜が稜線を覆い、世界の表面を滑らかにする。

岩は下で微かに振動し続けている。

振動に歩調を合わせて進む。

 

 

雲の裂け目に、遠い湿度の記憶が漂っている。

それを言葉にせず、身体だけで受け取る。

境界は再び揺れ、方向が柔らかく崩れる。

 

 

白い稜線は終わりを拒み、途切れず続いていく。

歩く意味は薄れ、ただ移動だけが残る。

風は静かに強まり、皮膚を滑り続ける。

 

 

雲海の底から、かすかな光の反射が上がる。

それは過去の残像のようにゆっくり滲む。

滲みを見下ろし、歩みを止めない。

 

 

聖嶺の上空で、夏は薄い膜となって震えていた。

震えの中を歩き続け、境目へ溶けていく。

雲海と身体の区別は消え、微光だけが残る。

 




雲海の厚みは、すでに背後で静かに閉じていた。
歩いてきた痕跡は、湿度の層に吸われて消えていく。
残されるのは、輪郭の薄い余韻だけであった。


白い稜線は形を変え、もはや一つの線ではなくなっていた。
足裏の記憶だけが、かすかな振動として残っている。
振動は次第に風へ溶け、区別を失っていく。


境目を越えたという実感を持たないまま立ち尽くす。
空と地の差はすでに均され、光だけが均質に広がる。
旅の終わりは沈黙ではなく、拡散としてそこにあった。
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