泡沫紀行   作:みどりのかけら

1786 / 1804
海のまだ名付けられていない気配が、遠い縁で薄く揺れていた。
揺らぎに誘われるように、乾いた土地の上を歩き始める。
足元の砂は軽く崩れ、過去と現在の境界を曖昧にしていく。


朝とも夜ともつかない光が、空の高さを測れないまま滲んでいた。
風は方向を持たず、ただ肌の表面を撫でては消えていく。
無方向の流れの中で、歩幅だけを頼りに進む。


遠くに白い反射が断続し、何かが崩れ続けていることだけが分かる。
それは形ではなく、時間の癖のように繰り返されていた。
反復に触れないまま、ただ近づいていく。



1786 白波を見下ろす石の階梯帯

白潮段丘帯の縁を、徒歩で辿っていた。

夏の微光は、海霧の薄膜に滲み、足元の影を揺らす。

 

 

石階は海へ向かい、冷えた表面が掌に湿りを返した。

白波は遥か下で砕け、音は断続する余韻として上昇した。

 

 

一段ごとに重さが膝へ移り、身体は緩やかに傾斜へ馴染む。

潮風は衣の隙間を通り、熱を奪うより先に輪郭を曖昧にした。

 

 

段丘は幾重にも折れ、水平線は断続する裂け目のように見えた。

遠い白の帯は、空と海の境界を曖昧に溶かしている。

 

 

石面には微かな苔の湿度があり、足裏に冷たい記憶を残す。

触れた箇所だけが一瞬だけ暗く沈み、すぐに乾きへ戻った。

 

 

階梯の途中で立ち止まり、海の圧を胸骨の奥に受ける。

そこには声の代わりに、絶えず崩れる白の反復があった。

 

 

海霧は細い粒となり、肌の表面で静かに凝集していく。

視界は遠近を失い、距離は湿度へと変換された。

 

 

段丘の縁には、風に磨かれた石片が散らばり、足音を吸い込む。

それらを踏み越え、存在の軽さを試されているように感じた。

 

 

白波の落下は規則を持たず、しかし繰り返しとして身体に刻まれる。

振動は足首から背へと遅れて伝わり、時間の形を変えた。

 

 

海と陸の境は線ではなく、圧力の層として重なっていた。

層の中を歩き、沈むでも浮くでもない状態を保つ。

 

 

濡れた石は滑らかで、指先の熱を奪いながら形を確かめさせる。

壁のような段丘に手を添え、進行の確かさを得る。

 

 

遠景に見える光は、断片化した白として空間に漂っていた。

それは記憶のように近づき、しかし決して具体にはならない。

 

 

風は周期を持たず、突然の圧として背中を押し戻す。

たびに歩幅は微かに乱れ、均衡は再構築される。

 

 

足裏に伝わる石の角は、長い時間を圧縮した痕跡のようだった。

それを読み取ることなく、ただ受け入れながら進む。

 

 

白波の音は高低を失い、空間ものが鳴っているようだった。

耳ではなく皮膚で聞く感覚が、全身に広がっていく。

 

 

段丘の終端は見えず、しかし終わりの気配だけが先に立っていた。

気配は重くなく、むしろ薄い膜として行く手を覆う。

 

 

湿った空気の中で呼吸し、内側と外側の境界を曖昧にする。

歩くことは、境界を擦り減らす行為のように続いた。

 

 

やがて白潮の広がりは静まり、音の代わりに光だけが残る。

光の中で、まだ続く階梯の影を見失わずにいる。

 

 

石階の傾斜はさらに緩やかに変質し、進行の感覚だけがわずかに残っていた。

膝裏に滲む重さを抱えたまま、冷えた石の連なりを踏み続ける。

白波の響きは遠のきながらも、皮膚の内側で微かに脈打っていた。

 

 

湿度は濃くなり、空気ものが薄い膜として頬に貼り付く。

段丘の裂け目から吹き上がる風は、記憶の断片のように形を持たず通過した。

通過の痕跡だけを頼りに、足の向きを確かめる。

 

 

やがて石の階梯は、地面という概念を失い始めていた。

白と灰の境界が滲み、歩くという行為は沈黙の中で継続するだけになる。

まだ続く傾斜の先に、終わりとも始まりともつかない微光を見ていた。

 




白の反響はすでに遠く、空間は薄い静けさへと沈んでいた。
階梯の終端に触れたはずの指先の感覚を、まだ持て余している。
そこには終わりというより、解け残った圧が残っていた。


湿った風は弱まり、皮膚に残る冷たさだけが記憶のように続く。
歩みは止まっているのに、内部ではまだ傾斜が続いている気がする。
境界は閉じず、ただ形を変えて遠ざかっていく。


海の気配は静かに退き、白い反復だけが遠景の底に沈んでいた。
沈黙の層に立ち尽くし、次の歩行の余白を感じている。
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