泡沫紀行   作:みどりのかけら

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秋の空はいつも静かに広がっている。
風は柔らかく、けれど確かな手触りを持ち、季節の変わり目を知らせていた。

木々の間を歩くたび、足元の土は冷たく沈み込み、草の匂いが鼻腔をくすぐる。
誰も知らない場所にそっと根を張り、時の流れに寄り添う古の木々は、語らずともそこにある意味を宿している。

その中でひときわ静かな存在がある。
実りの季節の始まりに佇む、言葉にできぬ祝福のようなものが。


0179 果実の始まりに宿る祝福

土の温もりをほどいたような風が、裾を撫でるように過ぎていった。

地に伏した草々は夏の名残を噛みしめるように香り立ち、色を落としかけた葉の間から、かすれた陽がこぼれている。

 

こつ、こつと、石の混じる小道を踏むたびに、かすかに音がした。

音は遠くの山影に溶け、やがて聞こえなくなった。

光も音も、なにひとつ捕まえようとすれば指の隙間からこぼれていく。

 

その場所に、辿りついた。

 

高台ではないが、少しだけ丘になっている。

四方は静まり返っていて、樹々も空を見上げて黙している。

風は止み、どこかで鳥の声がくぐもった。

 

ひとつの木が、そこにあった。

立ち姿はあまりにも静かで、まるで最初から時間というものに属していなかったかのようだ。

木肌はしわを幾重にも刻まれた老いのようでありながら、どこかしら瑞々しさをたたえていた。

 

枝は大地を抱くように広がり、葉はもうすでに秋の色に沈みかけている。

ただ、その葉の隙間に、小さな果実がひとつ、ふたつ。

 

まだ赤らみも浅い、あどけない色をした実。

手を伸ばせば届く距離だが、触れることはせず、ただ、見つめる。

 

その果実には、なにかが宿っているようだった。

雨が降りしきる夜も、雪が声を潜めて降る朝も、幾千の風が吹き抜けてきたその場所で、無数の実が、ひとつまたひとつ、落ちては朽ちていったはずなのに。

 

それでも、この木は何も語らず、ただ果実を宿す。

その繰り返しが、なぜか祝福のように思えた。

 

根元には、あまり人の足跡のないような苔が生えていた。

指でなぞると、やわらかく、どこか冷たかった。

それはまるで、長い夢から目覚めたばかりの誰かの記憶に触れたような感触だった。

 

木の近くに腰を下ろすと、風がひとつ、帰ってきた。

今度は枝を揺らし、葉の間を渡り、果実のあたりで止まった。

 

陽は斜めに傾き、葉の影が土にうつろいの模様を描いた。

木漏れ日が瞼を温め、静かな時間が呼吸の中にしみ込んでくる。

 

耳を澄ませば、遠くで小さな実がひとつ、落ちた音がした。

それは土に染みこむ祈りのようで、誰にも聞かれることのない約束のようでもあった。

 

また風が吹いた。

 

その音は、どこか懐かしかった。

どこで聞いたのかも思い出せぬほど遠い、しかし確かに覚えている、子守唄のようなもの。

ひととき、自分という存在が木と重なる錯覚すら覚えた。

 

その木が、最初に実を結んだ日のことを、思い描こうとした。

風はどんな匂いを運んでいたのか、空はどんな色をしていたのか。

はじめての果実に、木はどんな音を立てていたのか。

 

考えても答えは出ないが、胸の奥に何かが残った。

 

それは言葉にすることもできず、持ち帰ることもできない。

けれど、その場所に身を置いたという事実だけが、ゆっくりと沁み渡っていく。

 

やがて、夕暮れが、音もなく差し掛かってきた。

 

葉の色が深くなるとともに、空気の温度もわずかに変わった。

指先に触れる風が、冷たさの中に透明な輪郭を帯びていく。

 

見上げれば、ひとつ、またひとつと、空に微かな星の気配が浮かんでいた。

まだ空は藍に沈みきらぬが、空の向こうでは夜の支度が始まっている。

 

木の枝に残る実は、星を映して淡く光るように見えた。

それは錯覚かもしれないが、確かにそこに、なにかの鼓動があった。

遠くの空にひかるひとつの星と、地に立つひとつの果実が、見えない線で結ばれているように思えた。

 

息をするたび、胸の奥に冷たい空気が満ちていく。

吐く息は白くない。けれど、秋の輪郭は肌の奥にまで届いている。

 

ふと、足元にひとつの影があった。

それは、落ちた果実。

小さく、柔らかく、まだ完全には色づいていない。

 

手に取ると、想像よりも重みがあった。

その重さは、ただの果実の質量ではなく、長い季節をくぐり抜けてきた証のようにも思えた。

 

掌にのせたまま、目を閉じた。

葉擦れの音、遠くで啼く小さな鳥の声、土の匂い。

それらすべてが、ひとつの果実に宿っていた。

 

その果実は、食べるためにあるのではない。

言葉にするためでも、持ち帰るためでもない。

ただそこに実ったという、それだけのことが、どうしようもなく美しいと思えた。

 

そっと地に戻した。

 

指先に残った香りは、どこか懐かしいものだった。

幼いころに手渡された果物の匂い。

名もない村の市で嗅いだ、熟れかけの果実の香り。

もう思い出せない誰かの手から、渡されたものの記憶。

 

時のしずくのように、音もなく流れていった午後の光。

木のそばを離れると、風がふたたび吹いた。

今度は背中を押すように、静かに、しかし確かに。

 

歩き出す足元には、枯葉が一枚、また一枚と舞い降りる。

それらは誰にも見られることなく、地に落ち、土へと還っていく。

誰かがまたこの木を訪れ、実を見上げる日まで、眠るように時を積み重ねる。

 

振り返ることはしなかった。

記憶にはもう、木の佇まいが深く刻まれていた。

それは風に揺れる衣のすき間から、音もなく流れ込んできた。

 

遠くに、水の音がした。

小さな流れが石を打つ音は、まるで旅の終わりと始まりを告げる鐘のようだった。

 

秋の夕暮れは短く、けれどその一瞬のなかに、千の季節が宿っている。

 

それを確かに、見た気がした。

果実の始まりに宿る、名もなき祝福を。




時は巡り、季節は静かに移ろう。
何も変わらぬようでいて、すべては少しずつ姿を変えていく。

果実がまたひとつ落ち、風がまたひとつ歌を運ぶ。
その繰り返しの中に、見過ごされがちな美しさと、心の奥に届く優しさが確かに存在している。

歩みを止め、耳を澄ませる。
そうすると、遠い過去の祝福が、今ここに響いているのを感じられるだろう。
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