泡沫紀行   作:みどりのかけら

1791 / 1804
泡沫の層を踏み抜くようにして旅路の入口へ向かう。
まだ形を持たぬ門影が遠くの湿度の中で揺れている。
足裏には昨日でも明日でもない時間の砂が沈んでいる。


風は始まりを告げるのではなく境目の薄さを示している。
圧は皮膚の表面を撫でながら微細な震えを残す。
名づけられない方角へとゆっくりと重心を移す。


空と地の区別はすでに曖昧で膜のように重なっている。
膜は歩くたびにわずかに位置を変えては戻る。
揺らぎの中に入口の気配を探している。



1791 海風を迎える旅路の門影

泡沫の異界を歩き続ける旅人である。

潮境の駅舎へ向かう門影が海風に揺れていた。

足裏には湿った砂の記憶が重く沈殿している。

 

 

空は薄い膜のように広がり境目を失っていた。

風は遠い塩気を含み皮膚をかすかに押し返す。

歩みのたび地面は柔らかく沈み戻りを繰り返す。

 

 

道は存在よりも気配として私の前に伸びている。

触れれば崩れる光の粒が靴先にまとわりつく。

粒は冷えた記憶のように指の間へ逃げる。

 

 

潮境の駅舎はまだ遠く輪郭だけが濃度を増す。

影は海霧の奥で呼吸するように揺れている。

私の胸郭に微かな圧が生まれ歩調を変えさせる。

 

 

足元の砂はときおり金属に似た冷たさを帯びる。

それは過去に沈んだ構造物の残響だと感じられる。

手を伸ばすと風だけが指をすり抜けていった。

 

 

海に近づくほど空気は重く透明度を失っていく。

呼吸のたび胸の内側に微細な塩の結晶が積もる。

重さは歩行の速度を静かに遅く調律する。

 

 

遠景に立つ影は時折形を変え門のように開く。

開口部からは別の時間の湿度が漏れ出す。

そこを通過する未来をまだ持たずにいる。

 

 

地面は波打つように微細なうねりを繰り返す。

振動は膝から骨へと静かに伝わってくる。

立ち止まれば沈むという直感だけが残される。

 

 

潮境の駅舎の輪郭は次第に壁の質感を帯び始める。

それは木でも石でもない曖昧な記憶の集合体だ。

近づくほど音のない圧力が増していく気配がある。

 

 

風は背後から押すでもなくただ並走している。

存在は肌表面の温度差としてしか認識できない。

それを拒む理由を持たず歩き続けている。

 

 

足跡は残らず代わりに淡い光の滲みが生まれる。

それはすぐに消え去り私の存在だけを曖昧にする。

世界は私を記録する術を持たないまま呼吸する。

 

 

駅舎の入口と思われる裂け目が空間に現れる。

そこからは海と陸の区別が融解した匂いが漂う。

触れれば境界ものが崩れそうな脆さがある。

 

 

私の皮膚は風の圧を受け続けてわずかに痺れる。

それは痛みではなく存在の輪郭を確かめる感覚だ。

歩幅は自然に狭まり慎重さだけが増していく。

 

 

海鳴りのような沈黙が遠くから近づいてくる。

それは音ではなく時間の密度が変わる現象である。

私の背中に見えない重力が一瞬だけ増す。

 

 

駅舎の影はもはや建築ではなく境界ものだ。

そこに触れると過去と未来が同時に滲み出す。

揺らぎに飲まれぬよう呼吸を整える。

 

 

足元の砂が急に細かくなり水を含み始める。

変化は私の内部にも連動して広がっていく。

骨の奥で静かな潮汐が始まる感覚がある。

 

 

門影の中心に立つと世界の縁が薄く歪む。

そこでは時間が一歩遅れて私に追従している。

遅延の中で歩く意味を見失いかける。

 

 

風は完全に海の匂いへと変わり肌を包み込む。

駅舎の輪郭は水面のように揺らぎ始める。

私の足はまだ先へ進む意志だけを残している。

 

 

影の裂け目は静かに開き閉じを繰り返している。

度に異なる温度の記憶が流れ出していく。

それらを受け止める器としてそこに立つ。

 

 

潮境の駅舎は完全な形を持たぬまま私を迎える。

門影は旅路の終わりではなく始まりでもある。

海風の中で次の歩幅を静かに選び取る。

 




門影を抜けた後も海風は形を変えずに背後に残る。
それは別の時間から滲み出た温度として肌に触れている。
振り返らずに余韻だけを携えて歩き続ける。


足跡は消えたまま地面は静かに均されていく。
そこには過ぎたものではなく通過ものの重さが残る。
それを確かめることなく次の沈黙へ足を運ぶ。


境界の感触はもはや外側ではなく内部へと移っている。
胸郭の奥で潮汐のような微かな反復が続いている。
それを終わりとも始まりとも呼ばずに受け入れる。
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