泡沫紀行   作:みどりのかけら

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永遠とは、ただ静けさの中に宿るもの。

音もなく舞い落ちる白が、
すべてを覆い尽くすとき、
世界は息をひそめ、
過去と未来を溶かしはじめる。

足音ひとつでさえ、凍てついた空に吸われていく。


0018 氷花の園

霧のような吐息が、歩むたびに空へと溶けていく。

足裏の感触は、踏みしめるたびに薄く割れる氷砂糖のようで、

その音さえも、雪に包まれては消えてゆく。

 

風はなかった。

それは、風が眠っているからか、

あるいはこの地が、風さえも立ち入ることを赦さないからか。

 

白がすべてだった。

空も、道も、葉を落とした木々の肩も、

それらの境界線までもが、白に包まれていた。

 

歩いているという感覚が徐々に曖昧になる。

進んでいるのか、留まっているのか、

足跡だけが過去を証明し、白の帳が未来を覆っていた。

 

そして、音のない空間に、かすかな鼓動が滲んでくる。

 

それは、水の音だった。

けれど、それは決して奔流ではない。

細く、細く、氷の縫い目をすり抜ける、青のささやきだった。

 

木立が裂けるようにひらけた先、

目の前に現れたのは、

静寂のなかで時を忘れたひとつの谷だった。

 

白く凍った壁面から、まるで空が涙を流すように、

細い糸が幾筋も降りていた。

 

それらはすべて凍っていた。

 

凍った水の筋は、銀よりも淡く、

乳白のなかにわずかな蒼を含み、

まるで一瞬の記憶がそのまま結晶になったかのように、

空から垂れていた。

 

その滝は、声を持たなかった。

ただ凍っていた。

音を捨て、動きをやめ、ただその場所に、そこにいる、という存在だけで

すべてのものを圧倒していた。

 

滝のふもとには、溶けのこった流れがあった。

だが、それもまた、流れてはいなかった。

その水は、透きとおる青だった。

 

青と呼ぶにはあまりに深く、

蒼と書くにはあまりに儚い。

 

それはたしかに水でありながら、

何かこの世界の理から外れた色をしていた。

 

空の色とも、湖の色とも違う。

もっと冷たく、もっとやさしく、

すべてを抱きしめながら拒むような、

奇跡のような青だった。

 

足を止め、ただ立ち尽くす。

 

時が、ここだけ別の時を刻んでいるのではないかと思う。

 

凍った滝は、まるで天から垂れた糸。

青の川は、静かに眠る精霊の血脈。

この世界は、ただ一瞬のまばたきのなかで

凍りついた夢のようだった。

 

葉を落とした木々は、風のない空の下で微動だにせず、

まるで凍った花の園の衛兵のように並び立つ。

 

ひとつ、風が過る。

 

その瞬間、枝に積もっていた雪が音もなく崩れ、

滝の氷に触れて、白い粉となって舞った。

 

その雪は、まるでこの地の記憶を

空へ返していくように、静かに消えていった。

 

呼吸が浅くなる。

美しいという感情すら、口にするには失礼に思えるほど、

そこには、圧倒的な沈黙があった。

 

自分が歩いてきたことすら忘れ、

何か遠い記憶のなかに迷い込んでしまったような、

あるいは、誰かの夢の続きを

こっそり覗いてしまったような、そんな錯覚に陥る。

 

それでも、歩かなければならない。

 

目の前の青が、

まるで呼んでいるように、やさしく流れを生んでいる。

声はないが、確かにそこに“何か”がある。

 

一歩、また一歩。

 

川に沿って歩くと、やがてその青も

白の世界に紛れはじめる。

 

振り返る。

 

滝はまだそこにあった。

ただ、さっき見たよりも少しだけ白くなっていた。

 

静かに降る雪の粒が、

この世界を、少しずつ、少しずつ、

記憶の底へと埋めていく。

 

時が止まるのではない。

すべてが、あまりにゆっくりと進むのだ。

その速さは、雪の落ちる速度に似ている。

 

ふと、指先が冷たい。

感覚が遠ざかる。

それは、生きているという証かもしれなかった。

 

だが、この地の記憶のなかでは、

それすらも、やがて白に溶ける。

 

 




白のなかに立ち尽くすと、
心の奥に残っていた余熱さえ、静かに凍っていく。

それは痛みではなく、やさしい忘却だった。

私は、その静けさに感謝し、足をまた雪のなかへと踏み入れた。
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