泡沫紀行   作:みどりのかけら

1807 / 1809
霧層の手前には、まだ名を持たない斜面が広がっている。
私は薄く折れた空気を踏みしめ、静かに歩行を開始する。
湿度は低く、しかし肌の奥にだけ重さが残る。

遠い地平は雲に削られ、輪郭を失いかけている。
その曖昧さの中で、足裏だけが確かな位置を示す。
私は視界よりも地面の感触を頼りに進む。

風は断続的に流れ、呼吸の間隔を乱していく。
それでも身体は歩行の律動を保ち続ける。
私は境界へ向かう前の沈黙を受け取る。



1807 雲海を貫く天の門

雲裂山の肩に薄灰の層が折り重なる。

私は霧の重さを足裏に受けて歩みを進める。

空は低く、呼吸は水のように沈む。

 

霧層五合帯へ続く斜路は白く削れている。

風は断続的に肌を押し、体温を奪い戻す。

遠い残響のような気配だけが背後に残る。

 

靴底は湿った礫を噛み、微かな震えが上がる。

私は重心を前へ移し、息を細く切る。

白い霧が腕を撫で、輪郭を曖昧にほどく。

 

視界の端で光が裂け、薄い門の形が揺れる。

それは天門裂と呼ばれる開口の残響だった。

歩むほどに足元の温度が急に低くなる。

 

岩肌は乾いた皮膚のようにひび割れている。

指先が触れるたび、冷たい粉が崩れ落ちる。

私はその感触に呼吸の位置を奪われる。

 

霧の中で時間は薄く引き伸ばされる。

遠方に存在しないはずの足音の余韻が滲む。

私はそれを追わず、ただ坂を登り続ける。

 

空気は水銀のように重く、肺へ沈み込む。

肩の筋が軋み、歩幅が自然に狭まる。

それでも地面は静かに上昇を続けている。

 

雲の裂け目から、淡い青が一瞬だけ覗く。

その色は記憶の底をわずかに刺激する。

私は目を細め、視線を足元へ戻す。

 

霧層五合帯の境界は、触れられるほど近い。

しかし進むたびに距離は再び伸びていく。

その矛盾が皮膚の奥で静かに疼く。

 

地面から微細な熱が消え、冷気が代わる。

呼吸のたびに胸郭がわずかに軋む。

私は歩行の規則を淡く崩しながら進む。

 

霧の内部に、薄い輪郭が滲んでいる。

それは形を持たず、ただ存在の痕跡だけを残す。

私は視線を固定せず通過させる。

 

風圧が一瞬だけ強まり、身体を横へ押す。

足裏が滑り、世界の傾きが変わる錯覚を得る。

しかし地は沈黙を保ったまま揺れない。

 

雲の裂け目は再び閉じ、光は途絶える。

私はその反復に似た現象を受け入れ始める。

歩行は祈りのように単調へ沈んでいく。

 

腕に触れる霧は冷たく、しかしどこか柔らかい。

肌の境界が溶けるような錯覚が続く。

私は自分の輪郭を確かめるため指を握る。

 

足元の礫は音を失い、沈黙だけを返す。

その沈黙が逆に重量を増していく。

私はその上をただ通過する存在になる。

 

天門裂の影は近づいても遠のく性質を持つ。

距離という概念が霧に溶けていく。

私は時間の勾配を身体で測る。

 

空気の密度が変わり、呼吸が浅くなる。

それでも歩みは止まらず、ただ連続する。

背後の残響は次第に薄れ、消えかける。

 

雲の層が裂け、上方へ細い光が伸びる。

その光は門の輪郭をわずかに示すだけだった。

私はその入口へ向かい、足を置き直す。

 

地面は最後の傾斜を示し、静かに反転する。

身体は軽くも重くもなく、中間に漂う。

私は境界の直前で呼吸を整えないまま進む。

 

天門裂の内側には、音のない広がりがあった。

霧はそこで初めて方向を失い、滞留する。

私はその静けさに沈み込みながら歩き続ける。

 




天門裂の内側で、光は音のないまま広がっていた。
私はその中を通過し、境界の感触だけを残す。
身体の輪郭は霧と同化し、重さを失っていく。

背後にあったはずの斜面は既に気配を失っている。
残響のような風圧だけが、かすかに追従する。
私はそれを振り返らず、歩行の余韻だけを残す。

雲の層は閉じ、世界は再び均質な静けさへ戻る。
そこには到達という概念だけが薄く沈殿している。
私は名を持たないまま、その静けさに溶けていく。
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