私はまだ名のない谷間を歩き、冷えた土の感触を足裏へ受けながら、遠い季節の裂け目へ近づいていた。
薄明の空には細い月の影が残り、閉じられた輪のような光が静かに漂っていた。
指先で触れた岩肌には長い年月の重みがあり、消えた気配の温度だけが掌へ移った。
風は山の奥から流れ、衣の隙間へ入り込んで身体を冷ました。
私はその圧を受けながら歩みを進め、まだ姿を見せぬ山の記憶を拾い集めていた。
春の薄明が、風牙の目覚め山の斜面に淡い湿りを置いていた。
私は細い土の道を歩き、冷えた草の葉から朝露の粒を指先に受けた。
峠へ向かうたび、靴底には柔らかな泥の重さが絡みついた。
遠い岩肌には古い足跡の窪みが残り、過ぎ去った気配だけが薄く漂っていた。
孤月の檻と呼ばれる谷では、昼になっても月白の影が消えなかった。
私は岩壁へ手を添え、冷たい石の脈動を掌の奥へ沈めた。
風は細く鋭くなり、頬を撫でるたびに乾いた圧を残した。
草原の隅には温度の違う空気が溜まり、かすかな余韻が層を作っていた。
山腹の小径は、春の雨を吸い込んで黒く光っていた。
私は濡れた土を踏み、足首へ伝わる柔らかな沈みを確かめながら進んだ。
茅色の草が広がる斜面には、淡い香りを含んだ風が眠っていた。
その香りの奥には、何かが留まった痕跡のような静かな温度差があった。
夜の入口で、孤月の光は細い檻の骨のように谷へ落ちた。
私は薄い冷気に肩を包まれ、重たい静けさを背負って歩いた。
岩間に残る小さな窪みは、長い年月の触れ合いを記憶していた。
私はそこへ指を差し入れ、乾いた砂粒の感触をゆっくり味わった。
風牙の目覚め山では、風向きが幾度も変わり道の表情を変えた。
私は胸へ押し寄せる風圧に耐えながら、細い尾根を渡っていった。
谷底には薄青い霧が沈み、輪郭のない景色が揺れていた。
その霧の中には遠い残響のような気配があり、消えかけた記憶を包んでいた。
春の光は柔らかいのに、山の影には深い冷たさが残っていた。
私は指先を握り、凍えた感覚がほどけるまで静かに立ち止まった。
苔むした石の列は、古い境目を示すように斜面へ続いていた。
その周囲だけ空気が重く、足を運ぶたびに土の抵抗が増した。
私は朝靄の中を進み、湿った衣の重みを肌に感じていた。
風に揺れる草の擦れる気配が、見えない記録の頁をめくっていた。
山頂近くでは、空が広がるほど影が濃くなった。
私は乾いた岩へ腰を下ろし、掌から伝わる冷えを受け止めた。
孤月の檻の奥には、閉じた季節の名残が沈んでいた。
私はその場所の静けさに触れ、薄い震えを足元から感じ取った。
下り道では、土の香りが強くなり春の息吹が近づいた。
私は柔らかな斜面を踏み、膝へ返る小さな負荷を抱えながら歩いた。
風牙の尾根には、消えた気配の跡だけが細く残っていた。
その跡は冷たい光を纏い、過去と現在の境を静かに揺らしていた。
夕暮れの色が山肌へ染み込み、草の影を長く伸ばした。
私は伸びた影へ触れるように歩き、掌に残る乾いた温度を覚えた。
旅の終わり近く、目覚め山の風は穏やかな形へ戻った。
私は歩いた道の湿りと重さを身体に残し、孤月の檻を後にした。
風牙の目覚め山を離れる頃、夕暮れの光は細く伸びた影へ沈んでいた。
私は湿った土の感触を足元に残し、歩いた距離の重さを身体の奥で静かに抱えていた。
孤月の檻に閉ざされていたものは、消えたのではなく風の層へ溶けていた。
頬を撫でる柔らかな流れの中に、遠い余韻だけが淡く揺れていた。
私は再び細い道を歩き、山の静けさを胸の内へ持ち帰った。
春の冷たい光と温かな湿りは、終わりではなく次の旅路へ続く印として残っていた。