泡沫紀行   作:みどりのかけら

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落葉のかさなりに、誰かの歩いた気配が残っている。
湿った風がそっと頬を撫で、深い森の奥に誘うようだった。

あたたかさと、静けさと、もうひとつ何か名づけようのないもの。
それらが滲む場所へ、言葉より先に足が向かっていた。


0185 深き森が育む静謐の湯

梢の先で、ひとつ葉が舞った。

湿った空から降りるように、音もなく、細い螺旋を描いて地に伏す。

 

足裏に、土のふくらみが柔らかく応える。

落葉が幾層にも重なり合い、沈黙の羽根のように踏み音を呑み込んでいた。

空気にはひんやりとした湿り気があり、肌を撫でるたびに、どこか懐かしい気配が滲む。

 

木々は高く、そして深い。

幾百年の時を束ねたような幹は、苔に抱かれてなおなお太く、空の光を細く絞りながらも、森そのものが目を閉じた生きもののように呼吸している。

静けさは厚く、音の端まで冷えている。

けれどその奥底に、微かに泡立つものがある。

 

鳥の声も届かぬほどの深みに、一滴の湯気が流れていた。

 

冷たい風のなか、立ちのぼるそれは不意打ちのようにあたたかく、指先よりも先にまなざしが引き寄せられる。

滑らかな岩肌の裂け目から、薄い金のような湯が滲み、細く流れている。まるで森が内に秘めていた記憶を、ひそやかに洩らすかのように。

 

手をかざせば、湯気は逃げることなく、掌に宿った。

あたたかさは輪郭を持ち、しずかに骨の奥へと沁みてゆく。

それは語りかけではなく、寄り添うものの気配。

 

水音は極めて控えめで、むしろ沈黙のうちに包まれていた。

それでも、岩に流れの触れるところだけは、かすかに湯の声が響いていた。

耳を澄ませば、それは遠く、森の底の底から届く囁きにも似ていた。

 

一歩踏み出すたび、空気が重たくやわらかくなる。

樹皮に触れれば、それは冷たく、だが心地よく湿っている。

掌に残るのは木の呼吸と、過ぎ去った風の香り。

 

湯は流れ、風は流れ、陽もまた葉の合間を揺れていた。

 

木立の奥で、苔むした石の間からもうひと筋、湯が湧いていた。

囲うようにして岩が寄り添い、そこには小さな泉が眠っていた。

湯の色は澄んでいて、しかしどこか鈍く光る、曇りのない鏡のようだった。

手を浸せば、ぬくもりがふわりと広がる。湯が脈打つように、静かに水面がゆれた。

 

そのぬるさは、言葉を溶かしてしまうような温度だった。

 

ひとつ、息を吐く。

霧のように白い吐息が昇り、森のあわいに融けてゆく。

そして、しずかに身を沈める。湯は拒まず、ただ包む。

 

葉がひとつ、水面に落ちた。

小さな波紋が広がり、やがて元の静寂へと還る。

 

目を閉じれば、森の音が近づいてくる。

それは水のさざめきでも、風のざわめきでもない。

もっと深く、もっと古い、静謐の声。

 

ここでは、時すら眠っている。

 

ぬるい湯が肌を滑り、枝葉の隙間からこぼれる光が、水面に微かなきらめきを生む。

それは星の記憶のようで、けれど星ほどは遠くない。

指先で触れられるほどに近く、ただし触れた途端に消えてゆくような、儚い光。

 

肩まで沈めた身体に、森の匂いがじんわりと満ちていく。

湿った木の香、岩に沁みた湯の香、落葉の奥から漂う、土の眠りの香り。

それらは混ざり合って、この静かな湯に溶けている。

 

遠くで枝が折れる音がした。

だがそれは不安ではなかった。

この森において、音はすべて等しく、森の声であり、森の夢でもある。

 

湯の中で、手をそっとひろげる。

まるで水が手のひらの形にかたどられていくように、やわらかく形を変えるぬくもり。

ひとつひとつの指先が、自分のものではないような感覚。

 

意識がほどけていく。

輪郭が森に溶けて、枝のひとつ、苔のひとかけらのようになってゆく。

そこに名前も、過去も、重さもいらない。

 

湯の音も、風の揺れも、葉の影も、ただそこにあるだけ。

理由を求めない。意味を持たない。

それでも美しく、心の奥に触れる。

 

少しして、立ちあがる。

湯のぬくもりが肌に残り、冷たい風がそっと包みこむ。

その温度差が、かえって生きていることを知らせる。

 

歩き出す足元に、滑らかな石と湿った苔の感触。

一歩ごとに、身体の芯に眠っていた静けさが目を覚ましていく。

 

湯の気配は背後に遠ざかり、森の気配がまた前へと広がってゆく。

けれど、なにかが少しだけ違っていた。

 

木々は変わらず、風は変わらず、葉も、土も、同じはずなのに。

すべてがわずかにやわらかく、やさしく、まるで見守るようなまなざしを帯びている。

 

長いあいだ、静かに冷たい空気のなかを歩いてきたことを思い出す。

その先に、あの湯があったことも。

 

だが、記憶はもはや輪郭を持たない。

ぬくもりだけが、身体の奥に息づいていた。

 

一枚の葉が、肩に落ちる。

触れた瞬間の、ひやりとした感覚。

それすらも、この森の贈り物のように思える。

 

ふたたび歩き出す。

音もなく、森の静けさのなかへ。

あの湯の記憶を、身体の奥に灯したまま。

 

やがて道はまた、深く、静かに、つづいてゆく。

 

そして、まだ見ぬ静けさが、森の向こうで待っている。




肌に残るぬくもりは、湯のせいか、森のせいか。
歩き出してもなお、風がその記憶をそっと撫でていく。

すべてが静かで、やわらかく、そして確かだった。
ただそれだけが、胸の奥でゆっくりとほどけてゆく。
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