白嶺天道の入口には、半ば土へ沈んだ石の輪があった。掌を添えると、苔の奥から誰かが去った後の温度だけが返り、遠い残響のような気配が胸の奥へ触れた。
私はその道を歩き始めた。背負ったものの重さが肩へ沈むたび、雲の向こうにあるものが、まだ名を持たないまま私を待っているようだった。
夏の朝、私は雲を縫うように延びた白嶺天道へ足を置いた。薄い霧が靴底を濡らし、土の冷たさが足裏からゆっくり骨へ届いた。
登り口には、古い石の輪が半ば地面へ沈んでいた。指で撫でると、湿った苔の奥にかすかな温度差があり、誰かの手の余韻だけが残っていた。
道は黒い樹々の間を曲がり、夏の光を細くこぼしていた。肩へ落ちる風は軽いのに、斜面から押し返すような圧を含んでいた。
一歩ごとに呼吸が熱くなり、喉の奥へ乾いた空気が擦れていった。額の汗を拭うと塩の粒が指先に残り、それは小さな白い星のようだった。
森の奥から、声に似た気配が流れてきた。意味になる寸前で風へほどけ、耳の内側だけを冷たく撫でて消えた。
私は足を止め、湿った岩へ掌をついた。岩肌には昼の熱と地下の冷気が同居し、二つの季節を重ねたような震えが返ってきた。
高みへ進むほど、樹冠は低くなった。葉の隙間から覗く空は青いというより、深い水を頭上へ満たした色をしていた。
道端の草には、細い露が並んでいた。触れればすぐ崩れる粒なのに、その冷たさだけは指先へ長く留まり、歩く速さを静かに奪った。
曲がり角には白い石柱が一本立っていた。表面には読めない溝が刻まれ、そこへ風が通るたび、遠い残響のような震えが生まれた。
私は石柱の陰に腰を下ろした。背へ伝わる冷気と、胸元へ射し込む夏の日差しが拮抗し、身体の中に細い境界を作った。
やがて雲が斜面を這い上がってきた。白い湿気に膝を包まれると、地面そのものがゆっくり呼吸しているように重さを変えた。
雲の向こうから、複数の気配が重なった。足音ではなく、去った後の空気だけが幾重にも残り、私の周囲を円く巡った。
さらに歩くと、樹々が途切れて岩の稜線へ出た。風圧が正面から胸を押し、息を吸うたび肺の奥まで冷たい刃が入った。
その先に、銀色の細道が空へ向かっていた。陽を受けた岩粉が足元で瞬き、一本の路そのものが雲上へ駆け上がっているように見えた。
私は両手を地面につき、低くなった斜面を慎重に進んだ。指の腹へ砂粒が食い込み、掌に残る痛みが、この場所に身体があることを確かめていた。
頂へ近づくにつれ、音が減っていった。風さえ薄くなり、代わりに皮膚の内側で血の流れる感覚だけが大きくなった。
白い空間の中央に、輪のような影が浮かんでいた。近づいても影は濃くならず、触れようと伸ばした手だけが冷たい水へ沈んだ。
私はその冷たさから手を引いた。背後の道には、まだ誰かの気配が薄く残っていたが、それは振り返るたび遠ざかっていった。
空の高みで雲が割れ、銀色の光が足元へ落ちた。私はその光を踏みながら歩き続け、輪の外側へ静かに身を置いた。
雲上の銀路を離れるころ、空は夕暮れの薄紫へ変わっていた。冷えた岩を踏むたび、靴底から伝わる硬さが、長い夢の終わりを静かに告げていた。
振り返ると、白い雲の裂け目に細い道だけが残っていた。そこにはもう誰の姿もなく、風が通り抜けるたび、消えかけた気配が淡い余韻となって揺れていた。
私は歩みを止めず、斜面を下った。遠ざかる高みを背にした足元には夏の土の温度があり、そのぬくもりだけを抱えて、私は次の空へ向かった。