風は一つではなく、幾層にも重なって谷間を流れていた。頬を撫でる柔らかな流れの下に、骨まで届く冷たい圧が潜んでいる。
遠い岩陰から、声にならない気配がほどけてきた。私は振り返らず、その残響だけを背に置いて、山の奥へ続く影の回廊へ入った。
春の御坂山地は、まだ名を持たない朝の薄明かりに沈んでいた。私は谷底から続く細い斜面を、土の湿りを靴底に受けながら歩いた。雪解けの水が岩の割れ目を伝い、冷たい指のように足首へ触れた。
山影は幾重にも重なり、遠い稜線ほど青い膜に包まれていた。風は正面から来ず、斜面の裏側から層をなして押し寄せる。胸を開けば、その圧が肋骨の内側まで沈んだ。
道の脇には、誰かが立ち止まったらしい窪みが残っていた。そこだけ土がわずかに乾き、周囲より淡い温度を返している。私は手をかざし、その余韻の上を通り過ぎた。
薄い霧が膝の高さまで降りていた。布地に水気がまとわりつき、歩くたび脚が少し重くなる。霧の向こうでは、何かの気配だけが枝先を揺らしていた。
斜面を登るほど、風の音は低くなった。耳の奥には、声にならない残響が細い糸のように絡んでくる。私は歩幅を狭め、石を踏むたび足裏から返る硬さを確かめた。
山肌には黒い岩の帯が横たわり、その隙間から若い草が立ち上がっていた。指先で触れると葉は冷たく、内側に溜めた水を震わせた。春は柔らかいものだけで出来てはいない。
谷から上がる風と尾根から落ちる風が、胸の高さでぶつかっていた。身体が一歩ごとに押し戻され、前へ進むための重さが増していく。私は腰を落とし、土へ掌をついて斜面を越えた。
そこから先は、山影が回廊のように続いていた。左右の斜面に光が遮られ、足元だけが薄く銀色に浮かぶ。湿った空気は頬を撫で、次の瞬間には首筋を冷やした。
岩陰に残された小さな温度差が、過ぎ去った気配を知らせていた。私はそこへ近づかず、半歩だけ外側を回った。触れないことにも、歩き方の一つがあるらしかった。
昼の光が雲間から落ちても、回廊の底までは届かなかった。明るさは斜面に削られ、細い帯となって私の肩だけを温める。もう片方の肩には、古い夜のような冷気が沈んでいた。
風の層は眠っているように見えた。けれど足を置くたび、その眠りの表面がわずかに波打つ。頬へ当たる空気の向きが変わり、私は自分の歩みが山の奥へ触れていることを知った。
沢に足を浸すと、冷たさが脛から膝へ駆け上がった。石は水の下で丸く磨かれ、踏み込むたび足首を逃がそうとする。私は岩へ指を掛け、流れの重さを受けながら渡った。
対岸の土には細い跡が幾筋も残っていた。何かがそこを通ったのではなく、風と水が繰り返し撫でたような跡だった。私は指先で溝をなぞり、乾いた砂のざらつきを感じた。
午後になると、山の影はさらに長くなった。遠くで枝が一度だけ揺れ、その後には静けさだけが戻ってきた。気配は姿を持たず、温度差として私の背中を通り過ぎた。
尾根へ近づくにつれて空気が薄くなるように感じられた。肺へ入る風は冷え、吐いた息だけが短く頬を濡らす。私は胸元を押さえ、ゆっくりと斜面を上った。
頂へ続く道は、岩と根の間を縫っていた。掌に樹皮の硬い凹凸が食い込み、指の関節へ小さな痛みが残る。その痛みが足元の確かさを戻してくれた。
夕方、雲の裂け目から淡い光が山影へ流れ込んだ。回廊の奥にあった暗さが薄まり、濡れた岩だけが静かに輝いた。私はその光を追わず、光の消えた場所へ歩みを進めた。
夜の手前で風が止まった。肩から背へかかっていた圧が抜け、身体だけが取り残されたように軽くなる。私は立ち止まり、土の冷たさを靴底越しに受けた。
山影の底には、まだ春の水が眠っていた。私はその眠りを起こさぬよう、足音を土へ沈めながら歩いた。風の層を抜けた先で、月だけが細く、ひとりの輪郭を保っていた。
夕暮れの光が斜面から消えるころ、風の層は静かに沈んでいった。私は冷えた岩へ掌を置き、そこに残るわずかな温度を確かめた。
歩いてきた道には、私の足跡だけが細く続いていた。けれどその上を薄い風が撫でるたび、別の時間の痕跡まで重なって見えた。
月が山影の向こうから現れた。私はその光を追わず、まだ湿り気を抱く土へ足を戻し、夜の静けさの中を歩き続けた。