細い道を進むほど風は柔らかくなり、頬へ触れる空気に淡い甘さが混じった。枝の向こうから落ちてくる花びらが肩に触れ、その軽さとは釣り合わないほど深い余韻を残した。
やがて谷の入口が見えた。そこには桃色の霞が地面近くまで満ちていて、私はその境へ足を踏み入れた瞬間、外側の季節から静かに切り離された。
春の笛吹桃源郷へ入るころ、山肌には淡い桃雲が低く垂れていた。私は細い土道を歩き、湿った風を頬に受けながら、その雲の底へ身を沈めていった。
谷の入口では、地面から立つ水気が靴の縁を冷たく濡らした。踏みしめるたび土は柔らかく沈み、足裏に春の重さがゆっくり返ってきた。
桃の花は枝という枝を覆い、空と地面の境目を失わせていた。花びらが肩に触れるたび、薄い紙のような感触が残り、歩く速度まで淡くほどけていく。
風は谷間で向きを変え、背中を押したかと思えば、胸元から冷たく入り込んだ。その圧に息が浅くなり、私は襟を寄せたまま坂を登った。
水の流れる細道を越えると、苔むした石の表面から冷気が滲んでいた。掌を置けば、長い年月の湿りが皮膚へ移り、遠い季節の底に触れたようだった。
花の匂いは甘さだけではなく、濡れた土と樹皮の苦みを含んでいた。吸い込むほど喉の奥が冷え、吐息だけが白くほどける気がした。
谷の奥には、かつて誰かが歩いたらしい細い窪みが続いていた。そこだけ草が伏せられ、周囲よりわずかに温度が高く、消え残った気配が足首を撫でた。
桃雲は風に削られ、ところどころ深い空を覗かせた。青の裂け目から落ちる光が額を温め、その直後には花影が頬を冷やした。
私は斜面に腰を下ろし、掌いっぱいの土を掬った。湿り気を帯びた粒は指の隙間から落ち、残った黒さだけが、掌の皺に静かに沈んだ。
遠くで何かが触れ合うような残響が生まれた。音そのものではなく、空気の薄い揺れとして伝わり、花枝の間に淡い輪郭だけを残した。
そこには春の楽園と呼ばれる理由があったのかもしれない。けれど楽園は甘いだけではなく、足を取る泥と、肌を刺す冷えと、戻る道を隠すほどの花を抱えていた。
私はまた歩き出し、膝まで伸びた草を分けた。葉先の露が脛を連続して打ち、その冷たさが眠っていた感覚をひとつずつ起こしていった。
谷底の小さな泉に足を浸すと、骨まで届くような冷気が走った。しばらく動かずにいると、水面だけが私の熱を薄く受け取り、円い波を何重にも返した。
泉のそばには白い石が並び、その隙間に桃色の花びらが積もっていた。指先で一枚を拾うと、濡れた薄皮のような柔らかさがあり、すぐに風へ奪われた。
風下へ進むにつれ、花の香りは濃くなった。胸の奥まで満たされるその甘さの向こうから、誰にも届かない気配が重なり、空間そのものが微かに息をしているようだった。
夕刻が近づくと、桃雲の下端が金色に染まった。長い影が土道を横切り、私の足元へ伸びてきては、歩くたびに形を変えた。
その影の中には、古い足跡のような窪みがいくつも残っていた。雨に洗われても消えなかった凹みへ足を重ねると、地面から冷たい震えが脛へ伝わった。
私は桃の枝に手を添え、しばらく動かなかった。樹皮のざらつきと掌の熱が触れ合い、春という季節が、花ではなく重さとしてそこに在ることを知った。
やがて谷の出口が薄明るく見えてきた。振り返れば、桃雲は檻のように山あいへ満ち、その向こうに、輪郭を失った空が静かに沈んでいた。
私は歩き続けた。背中へ降りかかる花びらの軽さだけを残して、笛吹桃源郷の春から、まだ名のない次の道へ足を運んだ。
桃雲を抜けたころには、夕暮れが山の輪郭を薄く溶かしていた。私は泥の重みを残した靴で歩きながら、まだ肌に残る花の湿りを指先で確かめた。
振り返ると、谷は淡い影の中へ沈み、枝々だけが細い骨のように浮かんでいた。風が背後から吹くたび、花びらの触れ合う気配が遠くで重なり、戻れない場所の残響だけが胸の奥へ届いた。
私はそのまま次の坂を登った。背中に春の温度を抱えながら、足元へ落ちた一枚の桃花が見えなくなるまで、歩みを止めなかった。