泡沫紀行   作:みどりのかけら

1864 / 1870
白い霧の底から、細い坂道だけが朝へ続いていた。私は濡れた土を踏み、冷えた空気を肺の奥まで受け入れながら歩いた。

山影の向こうには、まだ見えない塔の気配があった。風が途切れるたび、遠い石壁から返されたような微かな残響が、私の背中へ触れてきた。

やがて雲間に白い頂が現れた。星を測る場所へ向かうには、まず地上の重さを一歩ずつ身体へ刻み込まなければならなかった。



1865 星を測る白き観測塔

朝の霧がほどける前、私は灰白の坂を歩き、濡れた石の冷たさを靴底から受け取った。遠い空には、月の欠けた輪郭だけが薄く残っていた。

 

坂を登るほど風は細くなり、頬を撫でるかわりに、皮膚の奥へ針のような圧を差し込んできた。道端の草は露を抱え、その重さだけで夜の長さを語っていた。

 

昼を過ぎても陽は高くならず、白い雲が空の深さを覆っていた。私は何度も掌を開き、指の隙間を抜ける冷気が、まだ自分を歩く者として残しているか確かめた。

 

谷を抜けると、地面は黒い砂へ変わった。踏みしめるたび足首が沈み、乾いた粒が靴の中へ入り込み、歩くことそのものに小さな重力が生まれた。

 

その先に、白い塔が立っていた。雲より白く、雪より硬く、空へ伸びる姿は、星を測るためだけに夜から切り出された骨のようだった。

 

塔の壁へ掌を当てると、石の冷たさの奥に、ごく弱い温度があった。誰かが去ったあとの余韻にも似ていたが、それは言葉ではなく、壁面に沈んだ時間の気配だった。

 

入口は狭く、私は肩をすぼめて中へ入った。湿った空気が胸いっぱいに満ち、吐息が白くほどけるたび、暗闇の輪郭がわずかに揺らいだ。

 

螺旋の階段を足で探りながら上った。石段は長い年月で中央だけが浅く削れ、そこへ足を置くと、見えない多くの歩みが脛へ重なってくるようだった。

 

途中の壁には細い傷が無数に走っていた。爪で刻んだような線も、風が残した亀裂も、私は区別せず、指先でなぞりながら上へ進んだ。

 

高くなるほど空気は薄く、耳の奥に静かな圧が溜まった。胸を押し広げても息は浅く、心臓の重さだけが身体の内側で明瞭になった。

 

小さな窓から外を見ると、山々は雲海の下へ沈み、塔だけが白い島として残っていた。足元には無数の谷があり、そのすべてがまだ名を持たない夢のように見えた。

 

最上階には円形の部屋があり、天井だけが夜へ開いていた。昼なのにそこから覗く空は濃く、青の底にひとつ、消えかけた星が震えていた。

 

床には細かな白砂が敷かれていた。膝をつくと砂が布越しに肌へ食い込み、その痛みが、星を測るという古い行為の孤独を静かに伝えた。

 

星の位置を記す溝は床いっぱいに広がっていたが、どの線も途中で途切れていた。私はその断絶へ指を置き、空と地面のあいだにある空白を測ろうとした。

 

すると塔の奥から、低い残響が一度だけ生まれた。音そのものではなく、遠い場所の温度が急に変わったような揺れで、白い壁を伝い私の背へ触れた。

 

私は立ち上がり、窓辺まで歩いた。風圧が胸を押し、衣服の隙間へ冷気が入り込んだとき、塔が私を閉じ込める檻ではなく、空へ戻す器に思えた。

 

けれど足元には、下りるための階段が続いていた。私はその方向へ身体を向けたが、背後の星を振り返ると、時間だけが円環を描いて私の影を待っていた。

 

帰ることは、同じ場所へ戻ることではないのかもしれない。私は白い石壁から掌を離し、残った冷たさを握ったまま、再び螺旋を下り始めた。

 

外へ出ると、夜の湿気が肩へ降り積もった。遠い空には星が増えていたが、私はもう数えず、足裏に伝わる黒い土の確かさだけを頼りに歩いた。

 

白い塔は背後で霧に沈み、やがて輪郭さえ失った。私は振り返らず、星を拒むように伸びた道を、月のない夜へ静かに踏み込んでいった。

 




夜明け前、私は塔から離れ、黒い土の道を下っていた。靴底には細かな砂が残り、歩くたび、そのざらつきが昨日までの時間を静かに削っていった。

背後を振り返ると、白い塔は霧の向こうで輪郭を失っていた。けれど掌にはまだ石の冷たさが残り、その温度だけが、あの場所が夢ではなかったことを告げていた。

空には月のない星明かりが広がっていた。私は星を数えず、ひとつの光から別の光へ渡るように、まだ名のない道を歩き続けた。
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