谷へ降りるにつれて空は細くなり、岩壁の影が肩を覆った。どこからともなく漂う湿った気配が、遠い過去の余韻のように肌へ触れた。
道の先には、風もないのに揺れる水鏡があった。私はその縁に立ち、そこへ沈んだ時間が、これから私の歩幅を変えていくのを待った。
秋の峡谷へ続く道を、私はひとりで歩いた。乾いた草の匂いに、夜の湿り気がまだ薄く残っていた。
朝の光は岩壁の肩だけを淡く撫で、谷底には冷たい影が沈んでいた。靴底から伝わる土の硬さが、一歩ごとに足裏の奥へ残った。
名もない沢を渡ると、薄い水膜が石の表面を覆っていた。指を浸せば、骨まで細く震えるような冷たさが腕を上った。
峡谷には、鏡と呼ぶには濁りすぎた水溜まりが幾つもあった。私はその一つに膝をつき、揺れる空を指先で崩した。
水面には現在の空だけでなく、過ぎた季節の影まで重なっているようだった。触れた指を戻すと、そこだけ温度の違う円が静かに広がった。
岩の裂け目から風が押し出され、胸骨のあたりへ重い圧を加えた。私は肩を低くして、その流れが抜けるまで立ち止まった。
足元の砂には、古い踏み跡らしい浅い窪みが連なっていた。そこに溜まった水だけが、まだ誰かの体温を覚えているように薄く曇っていた。
遠くで何かが擦れる気配がしたが、姿はどこにも現れなかった。峡谷の壁に残った余韻だけが、湿った空気をわずかに揺らしていた。
昼を越えるころ、陽は高くなったのに谷は冷えたままだった。掌を岩肌へ押し当てると、石の内部からゆっくりした重さが返ってきた。
細い道は水際へ降り、私は浅瀬に足首まで浸かった。冷気が脛を締め、歩くたびに水の抵抗が過去の頁をめくるようだった。
水底の小石には淡い筋が刻まれていた。指でなぞると、その凹みだけが妙に柔らかく、時間そのものに触れている気がした。
岸へ上がると、濡れた裾が脚にまとわりついた。風がそこへ入り込み、冷たさをさらに薄い刃へ変えていった。
峡谷の奥には、月のように白い岩が立っていた。昼の光を受けても輝かず、ただ周囲の影だけを深く抱えていた。
その根元に、小さな水鏡があった。覗き込むと、私の姿より先に、見知らぬ道の残響が水面を横切った。
耳を澄ますと、声ではない気配が岩陰に沈んでいた。近づくほど遠ざかり、離れるほど背中へ触れるような余韻だった。
夕暮れが谷へ流れ込むと、空気の重さが変わった。私は冷えた岩へ背を預け、衣服越しに伝わる硬さをしばらく受け止めた。
水面に映る月は細く、輪郭を持たない檻のようだった。そこへ落ちた枯葉が一枚、沈まずに円を描き続けていた。
夜気が降りるにつれ、峡谷全体が深い器へ変わっていった。私はその底を歩きながら、自分の足音が戻ってこないことに気づいた。
最後の水鏡を過ぎるころ、指先から冷たさが消えた。代わりに、長く抱えていた重さだけが足裏へ集まり、土の中へ静かに沈んでいった。
振り返ると、白い岩も水面も闇の中へほどけていた。私は秋の峡谷を後にせず、その暗がりと同じ歩幅で、さらに奥へ進んだ。
夜明け前、私は峡谷を抜ける細い坂を歩いていた。足裏にはまだ水の冷たさが残り、指先には濡れた岩のざらつきが消えずにいた。
振り返った谷は霧に閉ざされ、水鏡の姿も白い奥行きへ溶けていた。けれど背中には、そこに置き去りにしたはずの時間が、かすかな温度として残っていた。
私は歩みを止めず、薄明るい道へ進んだ。過ぎたものを呼び戻すのではなく、残響だけを抱えて、次の季節へ足を運んだ。