川霧が膝下を撫で、裸の枝影を白くぼかしていた。指先で古い樹皮に触れると、乾いた凹凸の奥から、眠った時間の硬さが返ってきた。
遠い果樹の列には、まだ見えない花の余韻があった。私はその気配を背にして谷へ入り、これから幾度も姿を変える土地の呼吸へ、静かに足を重ねた。
朝の谷は、薄い銀の膜をまとっていた。私は石の多い道を踏み、冷えた土の湿りを靴底から受け取った。遠くの斜面には、果樹の枝が幾重にも重なっていた。
川霧が足首へ流れ込み、裾を濡らす。水の気配は低く、胸の奥までゆっくり沈んだ。昨夜の雨は、葉裏と石肌に細かな重さを残していた。
春の枝には、白い花がほどけていた。花弁へ指を近づけると、風圧だけが先に触れ、淡い匂いが手の甲を撫でた。谷全体が、まだ名のない譜面のようだった。
土を踏むたび、柔らかな斜面が足裏を沈ませる。古い根の隆起を避けながら進むと、指先に枝のざらつきが伝わった。その硬さの内側で、季節が小さく脈打っている。
昼近く、陽は霧を押し上げ、果樹園の影を短くした。私は額に浮いた汗を袖でぬぐい、乾き始めた空気の軽さを頬に受けた。枝々には、花の名残が白い粉のように残っていた。
谷の底から、かすかな気配が上がってきた。声ではなく、誰かが去った場所だけに残る温度差として、それは風に混じった。私は足を止めず、その余韻を背中で受けた。
初夏になると、枝は青い実を抱えた。葉の濃い影へ手を差し入れると、湿った冷気が手首を包み、細い毛先まで震わせた。まだ酸い実の重さが、未来の季節を先取りしていた。
午後の風は谷壁から押し返され、胸元を強く叩いた。私は一歩ごとに上体を傾け、土の抵抗を膝で受け止めた。果樹の列は、その圧を受けながら静かに揺れていた。
夏の雨は突然に落ち、私は大きな葉の下で肩を濡らした。水滴が首筋を伝い、背中へ細い冷たさを引いた。濡れた土から立つ匂いには、熟す前の果実の青さが混じっていた。
雨が去ると、谷は重い光に満たされた。枝から落ちた雫が頬へ触れ、私はその一粒の冷たさをしばらく拭わなかった。足元には、水を含んだ赤土が深く沈んでいた。
実は次第に膨らみ、枝を低く垂らした。指でひとつに触れると、薄い皮の張りが掌へ返ってくる。重さとは、季節が地面へ向かって傾くことなのだと知った。
秋風は乾き、朝夕の谷に鋭さを帯びた。私は冷えた石へ手を置き、掌から奪われる熱を測った。斜面には、熟した実の色が点々と灯っていた。
甘い匂いは、風向きが変わるたび濃くなった。枝の下を歩くと、肩へ葉影が揺れ落ち、皮膚の上で光と冷気が交互にほどけた。足元には、落ちた果実の柔らかな重みがあった。
収穫の跡には、折れた細枝と葉の残響があった。そこに誰かの気配を感じても、姿を探すことはしなかった。温度の違う空気だけが、谷を横切っていった。
夕暮れには、果樹園の影が一枚の布のように伸びた。私はその境目を踏み越え、冷え始めた土の硬さを足裏に刻んだ。遠い斜面から、乾いた葉の擦れる余韻が届いた。
冬の入口で、枝は裸になった。細い枝先が空へ突き出し、触れる風は刃のように指を冷やした。私は両手を重ね、奪われた熱を胸元へしまった。
雪の夜が過ぎた朝、谷は白い沈黙に覆われた。踏み込むと脛まで沈み、湿った冷たさが布を越えて肌へ届いた。雪の下では、根だけが暗い重さを抱えていた。
やがて雪解けの水が斜面を細く走った。私はその脇を歩き、泥に取られる足を何度も引き抜いた。水の冷たさは、遠い春の記憶まで運んでいるようだった。
同じ枝に、また小さな芽が膨らんでいた。私は指先でそれを囲むように風を遮り、薄い殻の温度を感じた。循環とは戻ることではなく、重さを変えて同じ谷へ触れ直すことなのだ。
夕方、川霧が再び足元を覆った。私は果樹の間を抜け、濡れた土と冷えた空気を全身で受けながら歩いた。背後には一年分の枝影が重なり、前方にはまだ白い花の気配があった。
一年を巡った谷には、再び淡い芽がほどけていた。私は湿った小径を歩き、靴底にまとわりつく土の重さと、指を冷やす朝露を受け止めた。
枝には新しい花が生まれ、足元には古い実の痕跡が残っている。去った季節は消えず、樹皮のざらつきや土の温度へ姿を変え、次の季節へ沈んでいた。
川霧の向こうで、同じ風がまた谷を渡った。私は振り返らずに歩き続け、輪の内側へ戻るのではなく、重なった一年のすべてを抱えたまま、その先へ踏み出した。