かすかな水音と、土の匂い。
その先にあるものは、名のない静けさだった。
風の音が消えて、葉擦れだけが残った。
水の香が、どこからともなく立ちのぼる。
湿り気のある苔の呼吸と、土のぬくもりが、足裏にひそやかに語りかけてくる。
山の奥へと分け入るほど、言葉は意味を失い、肌に触れるものがすべての名を持つようになる。
小さな渡りを過ぎ、しばらく緩やかな坂を登ると、ふいに光が落ちていた。
濃い樹々の帳が切れ、ぽっかりと空いた場所に、静寂の鏡がひらかれていた。
青。
それは青という言葉では到底言い表せない、深く、清らかで、どこか懐かしい色だった。
水面はかすかに揺れていたが、音ひとつ立てなかった。
風も、鳥も、遠ざかっていた。
まるでこの一角だけ、時間が水底に沈んでしまったかのようだった。
陽の光が射し込むたび、水面の蒼がいくつもの表情を見せた。
碧に近づいたかと思えば、深夜の帳のような色に沈む。
瞬きの合間にさえ、色がすり替わる。
手のひらを伸ばしてみる。
水面には何も映らなかった。
姿も、影も、木々の揺れさえも。
映すことを忘れたような水だった。
その代わりに、胸の奥に潜んでいたはずの何かが、底からゆらりと浮かび上がってきた。
それは声なき声で、なつかしい歌のようでもあり、失われた夢の残り香のようでもあった。
足元には、無数の落葉が重なっている。
柔らかく、踏みしめるたびに、かすかな音がひそんでいた。
水辺へ近づくにつれ、空気が変わっていくのがわかる。
ひやりとするのに、どこか温かい。
冷たい手を包み込む春の吐息のような、逆説めいた気配があった。
岸辺には誰かが落としたのか、白い羽がひとつだけ置かれていた。
それを手にとると、羽は驚くほど軽く、湿りもせずに風に揺れた。
ひとのものではないことは確かだった。
けれど、何者のものとも断じられぬほど、純粋な白だった。
しゃがみこんで水面に指をつける。
凍えるように冷たいわけではないが、芯に触れるような感触だった。
まるで水の温度ではなく、遠い記憶の温度が皮膚を伝ったような。
この水は、長いあいだ眠っていたのだろうか。
それとも、見つめ返されるのを待っていたのか。
呼吸が浅くなり、胸が少しだけ締めつけられる。
けれど、それが不快ではないのが不思議だった。
水底には何もない。
ただ、深く、蒼い。
けれど、その「何もなさ」が、あまりに澄んでいて、すべてを含んでいるようにも見えた。
喉の奥がじんわりと熱を帯びる。
それが涙なのか、声にならない感情なのか、判別できないまま、ただその青を見つめ続ける。
風が戻ってきたのは、それからしばらく経ってからだった。
細く長い指のように、木の葉の間をすり抜ける風。
羽はふわりと宙を舞い、蒼の鏡の上をかすめた。
その瞬間、水面がかすかに揺れ、まるで瞳が瞬きをするようだった。
青の瞳は、ふたたび静けさに還った。
羽はどこかへ消えた。
けれど、その痕跡だけが、空気の密度をわずかに変えていた。
水辺を離れるのが惜しく、もう一度だけ、足元の土に手をついた。
その感触は、ひとつひとつの粒が静かに脈を打つようで、まるでこの場所全体が呼吸しているようだった。
誰にも気づかれず、ただ在りつづけること。
それだけで、永遠のような尊さが宿るということ。
立ち上がると、ふたたび身体が重力を思い出す。
風の向きも変わり、鳥の声が遠くから戻ってくる。
どれもかすかで、脈絡もない。
それでも、耳に届いたとたん、心のどこかが確かに震える。
道は細く、朽ちた木の根があちこちに浮かび上がっていた。
苔むした岩の間をすり抜けるように歩く。
靴の裏に土の重みが絡みつき、春の湿気が足首を撫でた。
木漏れ日が肌にあたるたび、白昼の夢から目覚めるような気配が過った。
けれど、ふり返っても、あの水はもう見えなかった。
背中の方で、静かに眠りへ還っていく気配だけが、薄く漂っていた。
葉の隙間から覗く空は、思いのほか高かった。
その青さに、さっきまで見つめていた水の色が、ふと重なる。
けれど、空の青は軽く、遠い。
あの水は、深くて、重くて、どこか近かった。
瞳の奥に、その色がまだ残っている気がする。
けして濁らず、滲まず、ひたすらに澄んだままで。
それは言葉にしようとした瞬間、ふっと消えてしまうような、かすかな痛みを伴っていた。
草の間に、小さな白い花が咲いていた。
名は知らない。
けれど、こんな場所にひっそりと咲いているということだけで、なぜだか胸が満たされた。
かがんで、そっと指先で触れる。
その柔らかさは、今触れたはずの感触よりも、指に残る気配のほうが確かだった。
やがて、小さな流れの音が聞こえてくる。
いくつもの小さな雫が、岩肌をすべり落ちている。
水が音を持つということに、ほっとする。
青の瞳の前では、あまりにも世界が沈黙しすぎていた。
この音は、終わりを知らずに続いていく。
落ちては、跳ね、しぶきをあげ、また落ちる。
それがただの繰り返しではないことを、耳が知っていた。
冷たさも温かさも、感情さえも、通りすぎてゆくだけ。
その中で、確かなものなど一つもないということを、どこかで知っている。
けれど、確かなものが何もないということが、ただそこに居る理由になることもある。
少しだけ振り返る。
森は深く、蒼を孕んだまま、何も語らずに立っていた。
けれどその沈黙は、拒絶ではなかった。
ただ、語る必要がないというだけ。
風が吹く。
どこからか、花の香りがする。
それは、さっき触れた白い花の香りではなかった。
もっと遠く、もっと前に嗅いだことのある匂い。
その記憶を思い出そうとする前に、香りは霧のように溶けていった。
けれど足は、自然と次の一歩を選んでいた。
歩く。
目に映るものすべてが、ほんの少しだけ、違って見える。
色も、音も、風も。
すべては変わらないはずなのに、変わってしまった。
あの青を知ってしまったのだから。
足元の石が不意に転がり、小さく音を立てた。
その響きが、やけに鮮やかに耳に残った。
それは、まだ見ぬどこかの扉を、やさしく叩くような音だった。
あとには何も残らなかった。
ただ、胸の奥に、青の気配が染み込んでいる。
それが夢であったのか、目の前に確かに在ったものなのか、もう確かめる術はない。
けれど、それで充分だった。