泡沫紀行   作:みどりのかけら

187 / 1176
枝々が陽を透かし、ひとしずくの光が、深い森の奥へと誘う。
かすかな水音と、土の匂い。
その先にあるものは、名のない静けさだった。


0187 深淵を覗く蒼の瞳

風の音が消えて、葉擦れだけが残った。

水の香が、どこからともなく立ちのぼる。

湿り気のある苔の呼吸と、土のぬくもりが、足裏にひそやかに語りかけてくる。

山の奥へと分け入るほど、言葉は意味を失い、肌に触れるものがすべての名を持つようになる。

 

小さな渡りを過ぎ、しばらく緩やかな坂を登ると、ふいに光が落ちていた。

濃い樹々の帳が切れ、ぽっかりと空いた場所に、静寂の鏡がひらかれていた。

 

青。

 

それは青という言葉では到底言い表せない、深く、清らかで、どこか懐かしい色だった。

水面はかすかに揺れていたが、音ひとつ立てなかった。

風も、鳥も、遠ざかっていた。

まるでこの一角だけ、時間が水底に沈んでしまったかのようだった。

 

陽の光が射し込むたび、水面の蒼がいくつもの表情を見せた。

碧に近づいたかと思えば、深夜の帳のような色に沈む。

瞬きの合間にさえ、色がすり替わる。

 

手のひらを伸ばしてみる。

水面には何も映らなかった。

姿も、影も、木々の揺れさえも。

映すことを忘れたような水だった。

 

その代わりに、胸の奥に潜んでいたはずの何かが、底からゆらりと浮かび上がってきた。

それは声なき声で、なつかしい歌のようでもあり、失われた夢の残り香のようでもあった。

 

足元には、無数の落葉が重なっている。

柔らかく、踏みしめるたびに、かすかな音がひそんでいた。

水辺へ近づくにつれ、空気が変わっていくのがわかる。

ひやりとするのに、どこか温かい。

冷たい手を包み込む春の吐息のような、逆説めいた気配があった。

 

岸辺には誰かが落としたのか、白い羽がひとつだけ置かれていた。

それを手にとると、羽は驚くほど軽く、湿りもせずに風に揺れた。

ひとのものではないことは確かだった。

けれど、何者のものとも断じられぬほど、純粋な白だった。

 

しゃがみこんで水面に指をつける。

凍えるように冷たいわけではないが、芯に触れるような感触だった。

まるで水の温度ではなく、遠い記憶の温度が皮膚を伝ったような。

 

この水は、長いあいだ眠っていたのだろうか。

それとも、見つめ返されるのを待っていたのか。

 

呼吸が浅くなり、胸が少しだけ締めつけられる。

けれど、それが不快ではないのが不思議だった。

 

水底には何もない。

ただ、深く、蒼い。

けれど、その「何もなさ」が、あまりに澄んでいて、すべてを含んでいるようにも見えた。

 

喉の奥がじんわりと熱を帯びる。

それが涙なのか、声にならない感情なのか、判別できないまま、ただその青を見つめ続ける。

 

風が戻ってきたのは、それからしばらく経ってからだった。

 

細く長い指のように、木の葉の間をすり抜ける風。

羽はふわりと宙を舞い、蒼の鏡の上をかすめた。

その瞬間、水面がかすかに揺れ、まるで瞳が瞬きをするようだった。

 

青の瞳は、ふたたび静けさに還った。

羽はどこかへ消えた。

けれど、その痕跡だけが、空気の密度をわずかに変えていた。

 

水辺を離れるのが惜しく、もう一度だけ、足元の土に手をついた。

その感触は、ひとつひとつの粒が静かに脈を打つようで、まるでこの場所全体が呼吸しているようだった。

誰にも気づかれず、ただ在りつづけること。

それだけで、永遠のような尊さが宿るということ。

 

立ち上がると、ふたたび身体が重力を思い出す。

風の向きも変わり、鳥の声が遠くから戻ってくる。

どれもかすかで、脈絡もない。

それでも、耳に届いたとたん、心のどこかが確かに震える。

 

道は細く、朽ちた木の根があちこちに浮かび上がっていた。

苔むした岩の間をすり抜けるように歩く。

靴の裏に土の重みが絡みつき、春の湿気が足首を撫でた。

 

木漏れ日が肌にあたるたび、白昼の夢から目覚めるような気配が過った。

けれど、ふり返っても、あの水はもう見えなかった。

背中の方で、静かに眠りへ還っていく気配だけが、薄く漂っていた。

 

葉の隙間から覗く空は、思いのほか高かった。

その青さに、さっきまで見つめていた水の色が、ふと重なる。

けれど、空の青は軽く、遠い。

あの水は、深くて、重くて、どこか近かった。

 

瞳の奥に、その色がまだ残っている気がする。

けして濁らず、滲まず、ひたすらに澄んだままで。

それは言葉にしようとした瞬間、ふっと消えてしまうような、かすかな痛みを伴っていた。

 

草の間に、小さな白い花が咲いていた。

名は知らない。

けれど、こんな場所にひっそりと咲いているということだけで、なぜだか胸が満たされた。

 

かがんで、そっと指先で触れる。

その柔らかさは、今触れたはずの感触よりも、指に残る気配のほうが確かだった。

 

やがて、小さな流れの音が聞こえてくる。

いくつもの小さな雫が、岩肌をすべり落ちている。

水が音を持つということに、ほっとする。

青の瞳の前では、あまりにも世界が沈黙しすぎていた。

 

この音は、終わりを知らずに続いていく。

落ちては、跳ね、しぶきをあげ、また落ちる。

それがただの繰り返しではないことを、耳が知っていた。

 

冷たさも温かさも、感情さえも、通りすぎてゆくだけ。

その中で、確かなものなど一つもないということを、どこかで知っている。

けれど、確かなものが何もないということが、ただそこに居る理由になることもある。

 

少しだけ振り返る。

森は深く、蒼を孕んだまま、何も語らずに立っていた。

けれどその沈黙は、拒絶ではなかった。

ただ、語る必要がないというだけ。

 

風が吹く。

どこからか、花の香りがする。

それは、さっき触れた白い花の香りではなかった。

もっと遠く、もっと前に嗅いだことのある匂い。

 

その記憶を思い出そうとする前に、香りは霧のように溶けていった。

 

けれど足は、自然と次の一歩を選んでいた。

 

歩く。

目に映るものすべてが、ほんの少しだけ、違って見える。

色も、音も、風も。

すべては変わらないはずなのに、変わってしまった。

 

あの青を知ってしまったのだから。

 

足元の石が不意に転がり、小さく音を立てた。

その響きが、やけに鮮やかに耳に残った。

 

それは、まだ見ぬどこかの扉を、やさしく叩くような音だった。




あとには何も残らなかった。
ただ、胸の奥に、青の気配が染み込んでいる。
それが夢であったのか、目の前に確かに在ったものなのか、もう確かめる術はない。

けれど、それで充分だった。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。