石垣へ掌を置くと、雨に冷やされた表面の下に、わずかな温度が残っていた。それは誰かの存在ではなく、幾度も重なった歩みが残した、消えきらない余韻だった。
私は息を浅く整え、細い道へ足を踏み入れた。前方の影は私を待つように伸びていたが、振り返れば、そこにも同じ長さの影が静かに続いていた。
春の雨が上がったころ、私は薄青い野の縁から古い街路へ足を踏み入れた。濡れた土が靴底にまとわりつき、一歩ごとに重さを増していった。
街路はゆるく谷へ沈み、淡い石の壁が左右に連なっていた。壁へ手を触れると、冷たさの底にだけ、長く残った温度があった。
軒の低い家々には、風の通り抜けた跡が薄く積もっていた。戸口の暗がりからは、声ではない気配がほどけ、私の肩先をかすめて消えた。
道の中央には春水が細く流れ、足首まで浸した草の匂いを運んでいた。水圧が脛を押し、歩くたびに身体の芯まで冷たさが沈んだ。
古い石段を上ると、踏面の窪みに黒い影が溜まっていた。私が踏み込むたび、その影はわずかに揺れ、誰かの歩みの余韻だけを返した。
街路の曲がり角には、白い花びらが一枚だけ貼りついていた。指先で拾うと湿った柔らかさが崩れ、掌に季節の薄い重みを残した。
風が谷から押し上がり、胸の奥まで細く圧をかけた。私は襟を閉じながら進み、遠い壁際に残る温度差を追った。
道端の土は何度も踏まれたらしく、黒く締まっていた。そこには足跡そのものではなく、消えた歩行の深さだけが静かに残っていた。
昼の光が雲間から差し、屋根の濡れた面を銀色に撫でた。光を受けた腕に微かな熱が生まれ、その熱だけが私を街路へ繋ぎとめた。
古い井戸の縁へ腰を下ろすと、石の冷気が衣服を越えて背へ届いた。底から返る湿った空気には、遠い残響のような気配が重なっていた。
私は再び立ち上がり、細い坂をゆっくり歩いた。ふくらはぎが張り、膝の裏に鈍い重さが生まれるほど、道は長く続いていた。
軒下の影へ入ると、肌を包む空気が急に薄暗くなった。そこだけ春の温度が遅れているようで、私は掌を壁に押しつけた。
壁面には無数の細い傷があり、その溝へ雨水が透明に溜まっていた。指を滑らせるとざらつきが皮膚を引き、過ぎ去った時間の硬さを伝えてきた。
坂を下る途中、背後から風が一度だけ強く吹いた。振り返っても誰もいないのに、濡れた石の上には新しい温度が帯びていた。
街路の先で霧がほどけ、薄緑の丘が姿を現した。私はその斜面から押し返されるような風圧を頬に受け、目を細めて歩き続けた。
夕方には雨雲が低くなり、屋根の下へ冷たい滴が散った。頬を伝う水を拭うと、指先に残った湿り気が遠い旅の記憶を呼び寄せた。
古い石垣のそばで、土だけがかすかに温かかった。手を伏せると、地面の奥から脈ではなく、幾度も重なった足取りの余韻が伝わった。
街路は次第に細くなり、家々の影が互いに重なった。私はその隙間を縫い、肩へ触れる冷気を押し分けながら進んだ。
夜の気配が降り始めるころ、遠くの角に淡い光がひとつ残った。私はその光へ急がず歩き、足裏に続く古い重さを一つずつ確かめた。
振り返ると、私の影の後ろに別の影がいくつも伸びていた。どれも私を追うのではなく、古き街路そのものに縫い留められ、春の薄闇へ静かに続いていた。
夜が街路を包むころ、私は最後の石段を下り、湿った土へ足を戻した。足裏には一日の重さが残り、冷えた空気が衣服の隙間から身体の奥へ沈んでいった。
振り返った古い街路には、もう私の姿だけがあった。けれど石の窪みや濡れた壁には、歩みの残響が薄く重なり、春の闇へ消えずに漂っていた。
私はその気配を背に受けたまま、まだ名のない野へ歩き出した。影はひとつだったが、その先には幾つもの足取りが、月のない空の下で静かに続いていた。