泡沫紀行   作:みどりのかけら

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冷えた土を踏む足音が、かすかに霧の中に吸い込まれていく。
葉擦れの音さえ遠ざかり、時間は水面に静かに沈んだまま。
その場所に流れるものは、湯でも風でもなく、声を持たない記憶のようだった。

秋が深まると、ときおり、見えないものが見えるような気がする。
温もりが、いちばん静かなところで、そっと湧き上がってくる。


0188 水鏡のほとりに湧く命の泉

葉はすでに音を忘れていた。

ひらりと落ちては、濡れた苔のうえで呼吸を止める。

空は低く、白く、どこまでも淡く溶けた光だけが、湖の水面を撫でている。

 

冷たい空気が頬を刺しても、それは痛みではなく、かすかな目覚めだった。

深く吐いた息が微かに白く、すぐに形を失ってゆく。

 

あらゆる音が遠く、風さえも声を抑えている。

水辺に並ぶ古い木々の影は、湖に反転し、もう一つの世界のように沈黙していた。

 

土の道は細く、湿っていて、踏みしめるたびに柔らかな抵抗が返ってくる。

かすかに甘く、枯れた草の香り。

誰かの名残のような、ひと夏の記憶がそこかしこに漂っていた。

 

小さな渡り鳥が一羽、枝の影を縫うように飛び去り、あとにはわずかな羽音が残る。

静けさは、消えるよりも深まっていく。

足元に咲く名も知らぬ花の赤が、ひときわ強く心に刺さる。

 

道はやがて傾斜を帯び、しだいに岩肌が多くなる。

苔に覆われた石の間から、かすかに湯の匂いが立ちのぼる。

ぬるりとした水音が、呼吸のように絶え間なく響いていた。

 

指先に触れた湯は、冷えた肌を静かに包み込んだ。

熱くはない、けれど確かに温もりを伝えてくる。

そこには名も、形も持たぬ癒しがあった。

 

岩のくぼみから湧き続ける泉は、透明で、どこまでも澄んでいる。

底の小石ひとつひとつが歪まずに見え、その清らかさに胸がすうとほどけていく。

 

木々の間から差し込む光が、湯の表にゆらめいて、その一筋一筋が、まるで古い記憶に触れるようだった。

 

湯に手を浸し、掌をゆっくりと開く。

何も持たず、何も求めず、ただ、静かに在るということ。

そのことだけが、今は確かだった。

 

風がわずかに吹き抜け、葉を散らす。

いくつもの色が空に舞い、また一枚、水面に落ちた。

 

さざなみが円を描き、幾重にも広がってゆく。

その模様がやがて収まり、湖は再び鏡となる。

 

沈黙のなかで、耳の奥に微かな音が響いた。

それは泉の呼吸か、木々のまどろみか、それともこの身の奥底から湧きあがるなにかか。

すぐには分からず、ただ、聴き続けた。

 

足元の石がぬれて滑る。

一歩一歩を確かめながら、湯のほとりを離れる。

背中に熱が残り、冷えた空気にすっとなじんでいく。

 

空には灰色と琥珀色が溶け合い、光はしだいに水平にのびていた。

そのときふと、あたり一面が蒸気をまとったように、ぼうっと霞む。

 

何かが去り、何かが満ちてゆく。

それはとても緩やかで、抗いようのない変化。

 

掌に残った湯の感触は、すでに消えていたが、その余韻だけが、どこまでも身体の奥に沈んでいた。

 

風が少し強くなり、樹々の梢がわずかに身を揺らすと、黄金に縁取られた葉がいくつか、静かに空を滑っていった。

落ち葉が湖面に触れた瞬間、小さな波紋が広がり、それを包むように秋の光がふるえる。

 

木立の間を抜けると、少しだけ開けた場所に出た。

そこには、誰かが座ったかのように、平らになった岩がひとつだけ置かれていた。

すぐ脇に、ほのかに湯気を立てる小さな流れ。

苔むした岩の間を縫って、湧き水が音もなく落ちている。

湯と水が、境もなくまじりあいながら、まるで時の断片を洗うように、清らかに流れていた。

 

座ると、腰から冷気がじんわりとしみてきた。

だがその冷たさは、ただの感覚にとどまらず、季節の輪郭を静かに語っているようだった。

耳を澄ませば、湧き水の落ちる音がいっそう澄んで、胸の奥にまで届く。

 

それは、どこか懐かしい音だった。

幼いころに聞いた雨の音かもしれず、夜明け前の夢の中にだけ存在する風景かもしれなかった。

けれど確かに、それは今、ここにある音であり、この秋の静けさと共鳴する命の響きだった。

 

湯に指を沈めると、掌から腕へと、緩やかな温もりが登ってくる。

その温度は、どこか人肌に近く、体の芯に触れるたび、過去のどこかでほどけずにいた結び目が、ひとつずつ緩んでいくようだった。

 

振り返ると、来た道がやや霞んでいた。

水蒸気なのか、それとも夕暮れの光が拡散しているのか。

すべての輪郭がわずかに溶け、世界が柔らかく息をしていた。

 

その場所に、何時間いたのかは分からない。

ただ、肌に触れる風の冷たさが、すこしずつ深まっていくことで、日が傾いたことを知る。

立ち上がると、膝の裏に冷えが残り、岩の感触がじかに思い出として刻まれた。

 

歩き出すと、足元に広がる落葉が音もなく崩れる。

まるで、音までもこの地に溶けてしまったかのように、沈黙だけが風景を覆っていた。

だが、その静けさは空虚ではなかった。

そこには、言葉にできない確かさがあった。

 

秋の光は、すべてを透かす。

湯気の向こうの木の幹も、遠くの水面も、赤く染まる葉の一枚一枚も、

すべてが真実を隠すことなく、ただ、そこにあるという静かな意思をまとっていた。

 

指先に残る温もりが、いまだに消えない。

それは、ただの湯の記憶ではなく、

ここに在った、在り続ける命の気配だった。

 

歩を進めるほどに、心の奥底で何かが変わっていく気配がある。

それが何であるかは分からない。

けれど、振り返らずとも、この地が何かを与えてくれたことだけは確かだった。

 

風のなかで、ふいに葉が舞う。

その一枚が肩に触れて、またすぐに飛び去っていった。

 

水鏡はすでに夜の色を帯びはじめていた。

光は薄くなり、音はさらに遠のいていく。

だがその静寂の中でこそ、

心というものは、深く深く、呼吸を取り戻してゆくのだと思った。

 

道は再び、森へと続いている。

沈む光の中、影はのび、世界はやがて、眠りのなかへと還っていく。

 

そしてその眠りのすぐ傍で、まだ名も持たぬ詩が、そっと息づいていた。




あの湯に触れてから、空の色も、風の重さも、どこか少し変わったように思えた。

何ひとつ語らず、何ひとつ答えないまま、水は今日も湧き続けている。
命のかたちを借りて、誰の記憶にも残らぬように、そっと。

歩いてきた道の先にあるのは、きっとまた、言葉にならない何か。
けれどそれでいいと思える静けさが、まだこの胸の奥で、ゆるやかに灯っている。
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