泡沫紀行   作:みどりのかけら

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森を歩いていると、ときおり、足元から深く吸い込まれるような感覚に出会うことがある。
それは、目に見えるものではなく、音や匂いでもなく、ただそこにある「気配」として立ちのぼる。
葉の裏に隠された風の動き、苔の下で息づく見えない命、そして、何百年という時をただ静かに過ごしてきた大地の重さ。
そうしたものに触れたとき、言葉よりも先に、ひとつの景色が心の奥に浮かび上がる。

それは、眠れる巨人の背を歩くような旅だった。


0189 眠れる巨人の森

苔むした岩が眠る斜面を、息を殺すように踏みしめる。

足裏に伝わるのは、湿り気を帯びた柔らかい大地。草ではない。

それは、何十年も光の下に出ることなく、しずかに育った繊毛のような苔の肌。

掌を置けば、眠っていた森の息吹が皮膚をとおして染み込んでくる。

 

木々は空を覆っていた。

まるで、千年を生きた大鹿の群れが、いまは立ち止まり、首を垂れてこちらを見つめているように。

その幹は、まっすぐではない。

風の道に従って撓み、屈し、それでもなお空へと伸びようとする、祈りのような曲線。

枝と枝が触れ合い、葉の裏で光が砕け、波のような陰影が流れてゆく。

 

水音が遠くから聞こえる。

それは小川のささやきではない。

岩の奥深く、目に見えない根の間をすり抜ける、まだ生まれて間もない水の胎動。

音は風に混じり、葉の隙間を這うように移ろう。

気づけば、あらゆるものが音を吸い込んでいた。

足音さえ、草の影に溶ける。

 

ある場所で、地が大きく沈んでいた。

うねるように傾いだ木々の根元に、幾重にも積み重なる落葉が、水に濡れた鱗のように重なっていた。

腐りかけた木の皮を指先で払えば、その下に淡い緑が宿っていた。

光の届かぬ底で、それでも何かが育とうとしていた。

 

振り返ると、いつの間にか霧が降りていた。

霧は枝の影をなぞり、木々の隙間に繊維のように溶け込む。

時間の感覚が薄れていく。

いや、もとよりここには、刻まれるべき時の流れなどなかったのかもしれない。

 

ひとつ、朽ちた倒木があった。

横たわる巨人の背骨のように、苔を纏って眠っていた。

そこに指を触れる。

冷たい。だが、完全な死ではない。

朽ちはじまりと、芽吹きの気配が同時にそこにある。

しずかに手を離し、目を閉じる。

微かなざわめきが、骨を通して伝わってくる。

それは音ではなかった。

森が、ひとときのまどろみのなかで夢を見ているのだ。

 

風が止んだ。

枝葉は沈黙し、あたりの空気がわずかに重たくなる。

濃くなった霧の向こう、見上げた先に、ただ一本だけ、他と異なる木があった。

 

その幹は、あまりにも太く、両腕を広げても抱えきれないほどだった。

けれど高さは、さほどでもない。

それは、地の深くから生えたような姿だった。

根の一部が露わになり、苔と水気を孕んで隆起している。

その上に足をかけ、腰を下ろす。

大地が、ゆるやかに脈を打つように揺れていた。

 

掌を地に添える。

そこに眠るものの気配がある。

古い、しかし終わりではない記憶のようなものが、皮膚の下をゆっくりと流れてゆく。

 

木の根の間から、小さな虫が這い出てきた。

黒く、光を持たないその体は、苔と土の境を確かめながら、ゆっくりと進む。

誰にも見られずに続けられてきた、絶え間ない営み。

見届けるというより、ただそこにいさせてもらうような、静かな共存のかたち。

 

遠くで何かが落ちた音がした。

果実か、小枝か、あるいは…

 

音の正体を確かめようと立ち上がったが、すぐに足を止めた。

落ちたものを追う必要はなかった。

ここでは、すべてが自らの意志で在る。

何かを知ろうとする動きは、かえってその存在を遠ざけてしまう。

 

葉の隙間から、やわらかい光がひとすじ、差し込んだ。

わずかに射し込んだその光は、苔の上に置かれた掌の先をやさしく撫でてゆく。

指先が透ける。

血潮の紅が、光に溶け、葉裏の緑とまじりあい、時の色を変える。

 

光の角度が変わったのか、あたりの影がゆるやかに流れ出した。

苔の上に落ちる木の影が、川のようにうねりながら、音もなく動いてゆく。

それはまるで、空そのものがゆっくりと息をしているかのようだった。

 

森の奥へと、歩を進める。

草木はより密になり、道は消えた。

けれど、不安はなかった。

足元に積もる落葉の柔らかさが、眠る者の胸の上を歩くような、静かな安堵を与えてくれる。

 

やがて、ひらけた場所に出た。

そこだけ、風が円を描いて回っていた。

木々の枝が不思議と重なり合い、外の空を拒むようにして、ぽっかりと天をくり抜いていた。

その中心に、苔に覆われた石があった。

石というにはあまりに巨大で、まるで、地の奥深くからせり上がってきた骨のようだった。

 

指先で苔を払ってみると、ざらついた感触の中に、なめらかな凹凸があった。

風化し、言葉ではないかたちになった刻み。

記されていたものは、もはや意味をなさない。

それでも、その痕跡は確かにあった。

 

空を見上げると、雲が裂け、ひとときの陽が降りてくる。

木の葉を透かして落ちる光が、苔の緑を透き通らせ、石の表面に淡い影を落とす。

その影が、ゆっくりと、眠る巨人の肩を撫でていた。

 

ふいに、空気の層が入れ替わった。

森が、深く息を吸ったような気配。

それに呼応するように、虫たちの羽音が遠くから聞こえはじめた。

名もなき声が、森の縁で交わされている。

気配が、ひとところに向かって集まりはじめていた。

 

その中心に、白い花がひとつ咲いていた。

木の根の裂け目から、ほのかに立ちのぼる香り。

花弁は五つ。

それは風に揺れることなく、まっすぐに空を見ていた。

触れることはしなかった。

その存在は、見るという行為だけで、すでに十分に満たされていた。

 

歩き続ける。

道はないが、進むべき方角は身体のなかにある。

樹々の間を抜け、岩肌をすり抜け、水のにおいを辿りながら、森の奥へと。

 

ふと、木々の合間から、ひとすじの流れが姿をあらわす。

それは水というより、光そのもののように透き通っていた。

手を差し入れる。

水は指の間をすり抜け、冷たさだけを残していった。

けれど、その冷たさには、はっきりとした輪郭があった。

記憶に触れるような、痛みとやさしさをともなう感触。

 

腰を下ろし、足を水に浸す。

小さな魚が一匹、足元をすり抜ける。

透明な鱗に、陽が砕けていた。

生きているものたちが、誰にも知られずにこの森で循環している。

音も言葉も要らない、ただ在ることの尊さに満たされながら。

 

目を閉じれば、心の奥に深い眠気が忍び寄ってくる。

それは疲れではなかった。

森に呼ばれ、森に包まれ、森の夢に沈んでいくような感覚。

 

大地が、また脈を打つ。

それは巨人の、深い眠りの鼓動。




いま思えば、あの森に響いていた音の多くは、沈黙のかたちをしていた。
水の流れる音も、葉が揺れる気配も、ただひとつの呼吸に還元されていたように思う。
触れることのなかった白い花、触れたことで目覚めた記憶の温度。
それらは言葉では届かず、けれど確かに心の底で灯っている。
森はまだ、あの眠りのなかにあるのだろうか。
それとも、あれは自分の中にずっとあった風景だったのだろうか。

静けさが、いまも耳の奥で続いている。
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