泡沫紀行   作:みどりのかけら

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夏の盛りを越えた風は、色彩の輪郭をやわらかくし、光と影のあわいに記憶のような気配を運んでくる。
ある土地には、年に一度だけ空を見上げる巨きな影が現れ、その地の空気までも変えてしまうという。

歩きながら、ふと風の向こうに見えてきたその姿を、ただ静かに記しとめておく。


0190 天を突く巨人たちの目覚め

ひとひらの風が、背を押す。

長い坂道を登りきった先、沈黙の平野がひらけていた。

光の粒が土を照らし、広がる空はひび割れた青磁の器のように、高く、脆く、冷たく、美しかった。

 

野にひときわ背高く立つ草々は、すでに夏の終わりを感じさせる黄に傾き、足元では風に撫でられた石が、こつ、こつ、と音を立てる。

その音はやがて、遠くから響いてくるものと混ざり合う。

それは音ではないのかもしれなかった。

地の奥から、天の髄まで震わせるような、なにかの気配。

土の下で長い眠りから目覚めようとするものの、深い吐息のような振動。

 

空気が、揺れている。

 

重く、透明な圧が背骨を這う。

耳に届かぬ鼓動が、かかとから首筋までを貫いていく。

遠く、森を抜けたあたりの地平線に、なにかが立ち上がろうとしていた。

樹ではない。

山でもない。

その影は、空の色を変えていた。

 

ひとつ。

またひとつ。

 

天を貫くほどの巨きな何かが、ゆっくりと姿をあらわす。

それは岩ではなく、木でもなく、だが生きているようでもあり、ただの像のようでもある。

形は曖昧で、けれど確かな意志がその背に宿っている。

動かぬまま、ただそこに立ち、まるで空に問いを投げかけているようだった。

 

近づくにつれて、風のにおいが変わってゆく。

鉄にも似た、焦げた草にも似た、濃密な夏の残香。

草木の間からあふれ出すように流れる色と音。

それらはすべて、巨人たちの足元から立ちのぼっていた。

 

ひとりの巨人は、腕を振り上げていた。

その手に何かを握っているが、それが剣か、旗か、それともただの風のかたまりかは、わからなかった。

だが、そのまなざしは確かに、空のもっと先を見つめていた。

もうひとりは、少し斜めに身をかがめ、誰かの名を呼ぶように、地のほうへと顔を向けていた。

風がその髪を揺らし、織り込まれた花々をはらはらと落とす。

 

足元には、光をまとった道がのびていた。

まっすぐに。

斜陽を背に受けながら、音もなく、影だけを連れて歩き続ける。

草を踏む音が柔らかく、胸の内の波紋と静かに重なる。

 

巨人たちのまなざしに貫かれるような、あの一瞬。

言葉では触れられないものが、肌の下に染みてくる。

 

この地には、名もなく立つものたちが、空と対話していた。

それは祈りにも似て、告げにも似ていた。

だが、誰に向けられたものかは、誰も知らない。

 

ただ、風がその答えを知っていた。

一陣の気配が頬を撫で、首筋を過ぎ、背中へと抜けていく。

冷たくもなく、温かくもなく、ただ――

 

懐かしい。

 

巨人たちの裾をくぐるとき、ほんのわずかに足元の地面が震えていた。

それはたぶん、誰にも聞こえぬほどの、目覚めの証。

 

石畳にも似た地のしわを踏みしめながら、影の長さだけが確かだった。

斜めに傾く光が、地を金に染めてゆく。

巨人の背がその光を遮り、日輪の一部が欠ける。

風が立ち、衣の裾が踊る。

 

近くに寄れば寄るほど、巨人たちの輪郭は曖昧になる。

近すぎると、形がわからなくなる。

あまりに大きいものは、目には映っても、心に収まらない。

 

見上げるほどの高さに、顔。

その目は、まるで星のように動かず、まばたきすらしない。

だがそこに、時の澱が沈み、長く閉ざされた意志が眠っている。

 

足元には、白い布がゆるやかに流れていた。

誰が置いたのかもわからぬ供物のように、土にまかれ、風にほつれ、薄い音を立てて揺れている。

淡い花弁のようなものが散らばっていたが、それが本当に花だったのか、記憶のかけらだったのか、もう確かめる術はない。

 

遠くで、鈍い太鼓のようなものが鳴っていた。

耳をすませば、皮膚の奥で響いてくる。

それは音ではなく、記憶の音。

まだ誰も生まれていなかった時代の、誰かの鼓動。

 

ある瞬間、風が止まった。

空の色が、群青から濃藍へと落ちていく。

その中で、巨人たちは何も語らず、何も動かず、ただ、立ち尽くしていた。

 

光が溶け、影が沈む。

足元の道が、どこかへ続いている。

 

振り返ると、来た道はもう、形を変えていた。

さっきまであったはずの木々が、違う場所に立ち、

先ほど渡った浅瀬が、もう少し深くなっている。

 

時間が少しずつ、歪んでいるようだった。

 

それでも、歩き続けるしかなかった。

足音は土に吸われ、風は背を押し、空は低くなる。

振り返るたびに、巨人たちは少しずつ、空と溶け合っていく。

 

その背中は、もう光の中に紛れていた。

けれど、まぶたを閉じれば、あの目が思い出される。

 

あまりに静かな、まなざし。

怒りも悲しみも持たず、ただ、空を見ていた。

 

どれほどの時を経て、あの姿になったのか。

どれほどの祈りを背負って、あそこに立っていたのか。

誰かが語ったとしても、それは届かない。

 

けれど、土の中には、知っているものたちがいる。

風の流れも、木の葉の裏も、小石の隙間も。

そこに宿るものたちが、記憶を守っている。

 

遠ざかるにつれて、音は消えていった。

だが、胸の中に残るものは、まだかすかに鼓動している。

 

耳の奥に残る、あの鈍い響き。

それが、巨人たちの目覚めの音だったのかもしれない。

 

もしくは、自らのなかに眠っていた、なにかの目覚めだったのかもしれない。

 

空はすでに、夜の衣をまといはじめていた。

星がひとつ、またひとつ、目をひらく。

その輝きのなかに、先ほどのまなざしと、どこか似たものがあった。

 

夜風がひんやりと、頬を撫でる。

息を吸い、吐く。

 

まだ歩ける。

そう思った。

 

そして、またひと足、前へと。




振り返れば、あの巨きな影たちはもう空の中に溶け、風だけがその気配をかすかに運んでいる。
何が語られ、何が沈黙したのかは分からない。

ただ、あの場所を通ったあと、胸の奥に残った静かな揺らぎだけが、確かだった。
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