泡沫紀行   作:みどりのかけら

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白く崩れた岸壁を、秋の風がさらっていく。
その風がどこから来て、どこへ向かうのかを誰も知らずに、ただ一歩ずつ、光と影の間を歩いた。

忘れられた層のような地形に、触れられる言葉はなく、その沈黙だけが、遠い日々の記憶をやさしく包んでいる。

気配だけが語る世界に、耳を澄ませてみたいと思った。


0195 大地が綴った白き記憶

白く崩れた断崖の静寂に、風がゆるやかな軌跡を描いていた。

空は淡く、雲はちぎれ、どこか遠くの時を孕んだまま、流れてゆく。

 

足元の道は、かつて何かが崩れた痕跡をそっと残していた。

骨のように乾いた土、雪のようにやわらかく砕けた岩肌。

そのすべてが、語らぬままに過去を抱いている。

誰の声も届かない、誰の記憶にも刻まれないまま、ただ、そこにある。

 

指先で白い砂をすくうと、それはさらさらと音もなく流れた。

掌の上でひとひらの夢がほどけるようだった。

陽の光を受けて、その一粒一粒が無数の小さな声のように煌めく。

呼びかけているようで、けして応えを求めてはいない。

 

深く削られた峡谷の縁を歩くと、風が肌をなぞった。

秋の冷たさは刺すようではなく、どこかしら、忘れられた温もりを孕んでいる。

昔、だれかがここを歩いたような、そんな感触だけが、背中に滲んで残った。

 

崖の下、白銀の層が幾重にも重なって、まるで大地が綴った書のように見える。

何を記しているのかは、とうに失われていたが、そこに刻まれた波紋のような線は、まるで時間そのものが折り重なったようだった。

 

一歩踏み出すごとに、靴の裏から小さな音がした。

乾いた小石が砕ける音。微細な破片が空気をかすめる音。

それらが織りなす微かな旋律が、足音の代わりとなって耳に残った。

 

風の通り道には、小さな枯葉が舞っていた。

赤でもなく、黄でもない、褪せた色彩。

形を失いかけたその葉のひとつを、指で挟んで空にかざす。

透ける光が葉脈を浮かび上がらせ、見たこともない地図のように思えた。

 

その地図の上を、どこか知らぬ風景が通りすぎていった。

 

谷を見下ろすと、深く刻まれた亀裂が白い地肌をむき出しにしていた。

まるで大地が自らの胸を裂き、遠い日の記憶を曝け出しているようだった。

だが、それは苦しみではなく、静かな告白のようでもあった。

 

しばらく立ち止まり、指先で岩の断面に触れる。

ひんやりとした感触が、肌の奥に染みこんでくる。

時折、風がその感触を撫でるように通り過ぎた。

 

空には鳥の姿ひとつなかったが、羽ばたきの気配だけが、どこか遠くに残っているようだった。

声なき声が、耳の奥にうっすらと残り、何かが近づいてくる予感だけを残して、再び遠ざかってゆく。

 

空と地とが出会う場所に、色はなかった。

ただ白と、限りなく薄い影。その間に漂うのは、ひとひらの名もない感情だった。

悲しみとも喜びとも違う、ただ、あるということの重み。

 

風がふたたび頬をなでた。背を向けると、その風はもういなかった。

 

歩みを進めると、白い地層の向こうに、ぽつりと紅が見えた。

苔でもなく、花でもなく、ただ、色そのもののような小さな紅。

岩の裂け目に宿るその色は、語らずとも、季節のなかで確かに燃えていた。

 

その色を見ていた時間だけ、鼓動が静かになった。

息が、音のない空気に溶けてゆく感覚。

身体の輪郭がゆるやかにほどけていくような錯覚が、砂の匂いとともに過ぎていった。

 

そのまま、目を閉じてみる。

 

風も、光も、音も、色も、すべてがひとつの記憶となって、静かに胸の奥へ沈んでゆく。

 

崖の縁から少し離れると、道はわずかに下り坂となり、白い砂混じりの地面に微かな影が伸びた。

その影が何に由来するものか、ふと立ち止まって空を見上げる。

そこには、陽の淡い輪郭と、それを縁取るように浮かぶ、うすく千切れた雲たちがあった。

 

かつてここに水が流れていたのだろうか。

白く磨かれた岩の曲線は、何千もの時間をかけて形づくられたようだった。

指でなぞると、そこには確かに流れの記憶がある。

水が削り、風が乾かし、陽が照らし、夜が包んだ無数の歳月。

 

一滴も残っていないのに、水の気配だけがそこにあった。

 

崖の向こうからふいに冷たい風が吹き抜け、肩をすぼめる。

風はやがて背を押すように静まり、歩を進めることを促すようだった。

 

足元の地面には、ときおり白ではない色が混ざる。

くすんだ灰、わずかに赤みを帯びた茶、そして淡く青く光る鉱物のかけら。

指で拾い上げると、それはまるで星の破片のように、静かな光を放っていた。

 

それを手のひらに置いたまま歩くと、重さはほとんど感じられなかった。

ただ、ぬくもりだけが、手のひらの中央にじんわりと残った。

 

やがて道は、ひとつの広がりにたどり着いた。

白く滑らかな岩の平原のような場所。

高低差もなく、風の音さえ吸い込まれてしまうような、静謐の底。

 

足音を立てるのが憚られるような、そんな場所。

空は果てなく高く、色を持たないまま澄んでいた。

 

遠くで白い断崖が折れ曲がって、巨大なうねりを描いていた。

大地が眠りのなかで身じろぎしたような形だった。

かつての鼓動、遠い昔の震え、それらの余韻がそのかたちとなって残ったのかもしれない。

 

手を伸ばしても届かないほど遠いのに、確かにそこにある、と感じさせる質量があった。

 

誰かが「言葉にできない」というとき、それは言葉を持たないものに出会ったときなのだと知る。ここにあるのは、そうした沈黙だった。

 

足元には、また別の葉が落ちていた。

今度のそれは、白と金が混ざりあったような、繊細な模様のものだった。

風がひとしきり通り過ぎると、その葉は音もなく舞い上がり、宙にひらひらと描くように円を描いた。

 

ひとときの舞。

その軌道に、どこか哀しみのようなやさしさがあった。

 

さらに進むと、岩肌の奥に小さな窪みがあり、そこにだけ薄暗い陰が宿っていた。

中を覗くと、地の呼吸のような、湿り気を帯びた冷気が頬に触れた。

そこはまるで、眠るものが夢をしまいこんでいるような空間だった。

 

息を潜めると、かすかに水音のようなものが聞こえた気がした。

滴り落ちる水ではない。もっと深く、土と岩のあいだで揺れる、遥かな音。

 

耳を澄ませているうちに、その音も消え、ただ胸の奥に波紋のような感触だけが残った。

 

外へ出ると、空はわずかに茜に染まりかけていた。

光が地を斜めに射し、白い岩々がほのかな金色に染まりはじめる。

 

影が伸び、地形のひだが際立ち、時間が色を持ち始めた。

ひとつの終わりが、穏やかに始まる気配。

 

振り返ると、来た道はすでに霞のなかに紛れていた。

足跡は風に攫われ、残るものはなにもない。

だが、歩いたという感触だけは、たしかに足裏に残っていた。

 

風がまた、歩を進めろと告げる。

 

名もなく、声もなく、ただ色と影と音だけが語るこの地に、今日、ほんのわずかの記憶が加わった。

 

それもまた、風に攫われる日がくるのだろう。

 

けれど、それでいい。

 

誰にも気づかれずに大地に還っていく記憶たちが、この場所をつくっているのだから。




風が止むと、すべての音が地に沈む。
白い岩肌も、舞い上がった葉も、遥かに霞む崖の縁も、まるで夢の外縁に置き去りにされたように、静かだった。

歩みの痕跡は消えても、足裏に感じたあの冷たい砂の感触だけが、なぜか、胸の奥にぬくもりのように残っていた。

それは、何も語らぬ大地からの、ささやかな返事だったのかもしれない。
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