泡沫紀行   作:みどりのかけら

196 / 1177
花の香りが風に混じり、ひとつの祈りのように漂っていた。
誰のためでもなく、ただそこに在る景色のすべてが、静かに語りかけてくる。

季節の狭間に立ち止まり、耳を澄ませば、過ぎた足音が土に沁みていくのがわかる。
道は、名もなく、声もなく、それでも確かにどこかへ続いている。


0196 伝説の剣士を偲ぶ風の祠

うす桃色の風が、かつて誰かの名を呼んでいた。

枝々の先に、小さな掌のような花弁がゆれ、空にとけるような光を零している。

土はまだ冬を少し引きずっていて、踏みしめるたび、かすかに水の音が返る。

 

一枚の花びらが頬に触れて落ちる。

それが、何かの記憶に触れたようで、思わず足が止まった。

長い石段が、どこまでも続いていた。

 

苔むした石には、幾度もの雨の跡が刻まれている。

冷たさの奥に、静かな温もりが潜んでいた。

指先で触れると、じわりと何かが滲んでくるようで、胸の奥がわずかに痛んだ。

 

風が、ひとつ、古い唄を運んできた。

誰が詠んだとも知れぬその節は、木々の間をくぐり、石の狭間に消えていく。

それでも、耳の奥に残るのは、剣が空気を斬るときの、乾いた律動だった。

 

祠の輪郭が、木洩れ日の向こうに、静かに浮かび上がってきた。

そこには、何もなかった。

いや、何もないという形の記憶が、確かに在った。

 

木造の柱は歪み、誰かが刻んだ文字は風化して、もはや読むことすら叶わない。

だが、その崩れかけた祠の奥には、剣の鍔のかけらのようなものが、陽に鈍く光っていた。

手に取るには至らなかった。触れてはいけないもののように思えた。

 

春の香りが満ちていた。

だが、それは甘やかなものではなかった。

どこか焦げたような匂い、刃が過ぎたあとの静けさに似ていた。

 

足元に、鳥の羽根が一枚落ちていた。

真白で、柔らかく、指に吸い付くようだった。

それを拾い、そっと風に放すと、羽根は、剣士の魂のように静かに空へ消えていった。

 

思えば、ここへ導かれるように歩いてきた。

山の肌をなぞるような小道、湿った葉の匂い、遠くで鳴いていた梟の声。

すべてが、ひとつの祈りのように、静かに積もっていた。

 

風がまた唄った。

今度はそれが、別れの詩に思えた。

柔らかな旋律の奥に、剣が抜かれる気配がかすかに混じる。

 

誰が祀ったのでもない。

だが、そこには確かに誰かが居た。

幾多の戦いを駆け、最後に剣を置いた者。

 

草の間から、蝶が一匹ふわりと浮かび、祠の屋根をなぞるように舞った。

その羽はかすかに破れていたが、舞う姿にはどこか、誇りのようなものがあった。

 

石の上に腰を下ろすと、背骨にひんやりとした感触が這い上がった。

視界の隅で、影がひとつ揺れた気がした。

だがそれは、枝に揺れる光だったのかもしれない。

 

遠く、鐘のような音が聞こえた。

風が塔を叩いたのか、それとも、己の内に響いたものだったのか。

 

風が鳴った。

それはひとつの問いかけのようでもあり、答えを知っている者の呟きにも似ていた。

指の先に残る土の温度が、なぜか涙の味に近かった。

 

空はどこまでもやわらかく、けれど触れるには遠すぎた。

手を伸ばせば届きそうな雲の輪郭は、すぐに風にかき消される。

すべてが儚く、だが確かにここにあったという気配だけが、胸の奥に染み込んでくる。

 

どこかで水音がした。

それは小さな湧き水のせせらぎで、岩の影から流れ出し、細い流れとなって下っていた。

その水に手を浸せば、春を孕んだ冷たさが肌を伝い、まるで時の底に触れるようだった。

 

誰かがここで膝を折り、剣を置いたときも、きっとこの音がしていたのだろうか。

水音と、風と、落ちる花びらと。

それだけの世界の中で、ひとは何を想い、何を終わらせたのだろうか。

 

振り返れば、歩いてきた道がかすかに霞んでいた。

春の陽が、やさしくもまどろみを誘うように辺りを包んでいる。

幾千の花びらが宙を舞い、それぞれが静かな終わりを迎えようとしていた。

 

剣士は、戦いの中に生きていたのではない。

たぶん、それを越えてなお、この地に残った風こそが、生きた証なのだろう。

そして今、それは誰の名前を持たぬまま、ただ静かに吹いている。

 

小石を拾い、祠の前にそっと置いた。

名も刻まず、願いも込めず。

ただそこに、手を添えたという事実だけを、風に預けた。

 

歩みを再び進める。

木々の間を抜けるたび、ひとつずつ花の色が変わっていく。

うす桃から白へ、そして、かすかな紅を帯びた花へと。

 

枝の高みに、ひときわ大きな花が咲いていた。

それは風に揺れながら、まるで何かを見届けていたようだった。

咲くことも、散ることも、ただ静かに受け入れているかのように。

 

祠が遠ざかると、あの唄ももう聞こえなかった。

けれど、耳の奥に残った旋律は、ひとつの形を持たないまま、胸に染みていた。

 

風はまた吹いた。

今度は、背を押すような優しさを伴っていた。

それはきっと、あの剣士の最後の歩幅と、同じリズムだったのだろう。

 

山の影が長くなるころ、道は再び細くなった。

だが不思議と、不安はなかった。

遠ざかった祠の静けさが、まだ背中に寄り添っているようだった。

 

過ぎた場所に、名を刻む必要などない。

そこに確かに誰かが居たという、風の記憶だけが、すべてを物語っていた。

 

そして今、その風を受けて歩くことが、ただそれだけのことが、

剣よりも重く、唄よりも深い意味を持つように思えた。

 

花びらがひとひら、肩に落ちる。

それはまるで、ひとつの物語の結び目のようだった。

 

空はただ、澄みきっていた。




風がすべてをさらっていったあと、そこには何も残っていなかった。
それなのに、胸の奥には不思議な重さが残り、どこか遠くで誰かの気配を感じた。
名を知らずとも、姿を見ずとも、その存在が確かにあったと、土と花が教えてくれる。

ただ歩き、ただ感じるだけで、いくつもの季節が、静かに結ばれていく。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。