泡沫紀行   作:みどりのかけら

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星が美しいのは、光があるからではない。

漆黒の闇を宿す空と、
音のない夜があってこそ、
星はその輝きを得る。

この地で私は、それを知った。

一夜の静寂が、私の記憶を塗り替えた。


0002 星降る水鏡

到着したのは、昼過ぎだった。

 

舗装路は途中で終わり、あとは砂利と湿った土が続く。

深く息を吸い込むと、草の香りに混じって微かな冷気が鼻をかすめた。

 

視線の先には――

静かに光を湛える湖。

 

どこまでも澄んだ、青と碧の境界がないその水面は、

ただそこに“在る”ことを選んだように、時間を拒むように、

言葉を超えた静けさを抱いていた。

 

私はその静寂に、言葉を失った。

 

湖畔に座り、手のひらで小石を転がす。

それは滑らかで、乾いていて、

何かを何百年も削り続けてきた証のようだった。

 

どこまでも、静かだった。

鳥のさえずりも遠く、風の音すら聞こえない。

 

そして私は、思った。

 

――この静けさが夜を迎えたとき、何が起こるのだろう。

 

太陽は静かに、けれど確かに傾いていった。

黄金の光が森の梢を染め、湖を橙色に染める。

 

その光が完全に消えたあと――

 

音のない“夜”が、湖に降りてきた。

 

空が濃い藍に変わる。

やがて一番星が、東の空に浮かぶ。

 

それは、あまりに明るく、まるで星ではないように見えた。

けれど、確かに“そこ”にあった。

静かに、動かず、瞬かず、

まるで、空に開いた小さな穴から、宇宙の光が漏れ出したかのように。

 

次々と星が現れる。

北の空に、天の川が滲むように広がっていく。

 

そして――

私は気づいた。

 

星たちは、湖にも浮かんでいたのだ。

 

それは、ただ映っているだけではない。

星が、“水に棲んでいる”ようだった。

 

空と湖。

上下が反転し、境界を失い、

私はまるで――星の中に、立っていた。

 

息を呑んだ。

 

言葉は、この瞬間の前では無力だった。

写真も、記録も、再現できない。

ただ、今ここにいるという事実だけが、

心に刻まれていく。

 

鳥肌が立った。

 

それは寒さのせいではない。

自分の存在が、あまりにちっぽけで、

この世界が、あまりに広大で、

この夜が、完璧すぎたからだった。

 

流れ星が落ちた。

 

静かに、するすると滑るように。

誰にも見られずに消えていくその光が――

湖にも、同じ軌跡を描いた。

 

その刹那。

 

私は、泣いた。

 

涙がこぼれた理由は、わからない。

でも、何か大きなものと出会ったとき、人は自然と涙を流すのだと思う。

 

月が昇り始めた。

 

その光は冷たく、

けれど湖に触れたとたん、やさしく溶けていった。

 

星は徐々に数を減らし、

世界は静かに、また変わっていく。

 

けれど、私は動けなかった。

 

この場所にいたかった。

この瞬間が、永遠であってほしかった。

 

夜明けが来るのが、惜しかった。

 

やがて、東の空がほのかに明るくなり、

森の中から、また鳥たちの声が戻ってきた。

 

星は、ゆっくりと姿を消した。

湖面の光も、朝の風に揺れて、

まるで昨夜の幻想が嘘だったかのように、静かに波を立てていた。

 

でも、私は知っている。

 

あの夜は、確かに存在した。

星は、降りてきた。

湖は、宇宙を映した。

 

私は、それを見た。

 

この目で。

この心で。

 

最後にもう一度、湖に向かって深く頭を下げた。

それは、感謝の礼だった。

そして――別れの挨拶でもあった。

 

私はバックパックを背負い、

振り返らずに、森へと戻った。

 

湖に、星に、夜に。

もう二度と、同じ景色には出会えないかもしれない。

 

けれど、あの光は確かに私の中に残っている。

 

いつまでも、

いつまでも――




星は記録には残せない。
けれど、その光は、心に焼きつく。

静けさと闇と、澄んだ空気。

全てが揃って初めて出会える奇跡のような景色。
私はそれを見た。

そして、静かに胸にしまった。
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