ひととき、時が止まったような気がした。
白昼、静かに燃える色の海へと、
私は歩いていく。
足元の土はやわらかく、まだ乾ききらない朝露をふくんでいた。
湿った匂いが、記憶の深い部分をくすぐる。
小さな丘の裾を辿り、緩やかな登り坂を進んでいくと、風が変わる。
少し冷たく、甘やかで、どこか懐かしい香りが肌を撫でる。
目の前に現れたのは、限りなく続く紫の海だった。
遠くからではただ色が広がっているように見えたその光景は、近づくにつれて次第に細かい揺らぎを持ちはじめる。
ひとつひとつの小さな花が、風に身を預けるようにして揺れている。
紫というには濃すぎるもの。
薄い藤色に近いもの。
陽を受けてほとんど白にしか見えないもの。
まるで無数の記憶が、花の姿を借りてそこに眠っているようだった。
腰を下ろす。
そして目を閉じる。
音が消える。
聞こえるのは風のざわめきと、かすかに擦れ合う花々の吐息だけ。
香りがゆっくりと肺を満たし、脈のように体の隅々へ沁みわたっていく。
視界を閉じたまま、あたりに満ちる空気の色を思う。
紫ではない。
もっと透明で、けれど確かに熱を持っていた。
目を開けると、雲がひとつ、頭上に浮かんでいる。
それはまるで、大地を抱きしめようと降りてきた誰かの片腕のようで、
この広大な紫の迷宮に彷徨う者を、そっと導いているかのように見えた。
どこまで続くのだろう。
花の絨毯は地平のかなたへと溶けるように伸びていた。
歩き出す。
ひとつひとつの足音が、土にしずかに吸い込まれていく。
振り返ると、もう来た道は霞んでいた。
まるでこの場所は、前に進む者しか受け入れないような、
そんな静かな厳しさをたたえていた。
空はどこまでも澄んでいた。
夏の盛りの色ではない。
青の向こうに白が潜んでいるような、そんな微細な濁りを孕んでいた。
だからこそ、地に咲く花々の色は際立ち、
それはまるで、光そのものを地上に根づかせたようでもあった。
途中、風が強く吹いた。
花々が一斉に波打ち、海のようなうねりが大地を渡っていった。
その瞬間、私は自分がとても小さな存在であることを知った。
ひとつの花にも、ひとつの風にも、抗うことなどできない。
けれど、ただ静かに受け入れることでしか得られない何かが、
この場所にはあった。
背中に太陽を感じる。
午後がゆっくりと始まり、光が少しずつ角度を変えてゆく。
花々の影が長くなり、紫の海は次第に金の揺らぎを帯びはじめた。
その美しさに、言葉はひとつも浮かばなかった。
ただ、足を止めて見つめるしかなかった。
歩き続けているのに、同じ景色の中をぐるぐると巡っている気がする。
しかし、ほんのわずかずつ、確かに何かが変わっている。
風の向き。
香りの深さ。
空の色。
そして、自分の胸の中にある、なにかとても遠い記憶の位置が。
その記憶は、白かった。
一面の雪景色のように。
あるいは、朝靄のように。
その白の中に、今目の前に広がる紫の花が、たしかに揺れていた。
遠い昔、それを見たような気がする。
それが現か夢かもわからぬまま、私はまた歩き出す。
一匹の蝶が、前を横切る。
花の上に舞い降りるでもなく、どこかへ急ぐふうでもない。
ただ、風の流れに身を任せるようにして、空へと登っていく。
その白い翅が空の青に溶けてゆくとき、
私はこの地を、決して忘れてはいけないと心に刻んだ。
音のない鐘が、どこかで鳴ったような気がした。
それはこの土地が放つ、沈黙の声だったのかもしれない。
誰にも聞こえず、けれど確かにここに響いていた。
振り返ると、紫の大地が、
永遠の時を抱きしめるように、たたずんでいた。
言葉を重ねるほどに、この場所の記憶は遠ざかる気がする。
だからこそ、私は静かに歩き、目に焼きつける。
消えゆく風景を、
永遠に変わらぬまなざしで見つめながら。