泡沫紀行   作:みどりのかけら

20 / 1179
空が高すぎて、胸の奥まで風が吹き抜けた。

ひととき、時が止まったような気がした。


白昼、静かに燃える色の海へと、


私は歩いていく。


0020 夏空の迷宮

足元の土はやわらかく、まだ乾ききらない朝露をふくんでいた。

湿った匂いが、記憶の深い部分をくすぐる。

 

小さな丘の裾を辿り、緩やかな登り坂を進んでいくと、風が変わる。

少し冷たく、甘やかで、どこか懐かしい香りが肌を撫でる。

 

目の前に現れたのは、限りなく続く紫の海だった。

 

 

 

遠くからではただ色が広がっているように見えたその光景は、近づくにつれて次第に細かい揺らぎを持ちはじめる。

ひとつひとつの小さな花が、風に身を預けるようにして揺れている。

 

紫というには濃すぎるもの。

薄い藤色に近いもの。

陽を受けてほとんど白にしか見えないもの。

 

まるで無数の記憶が、花の姿を借りてそこに眠っているようだった。

 

 

 

腰を下ろす。

そして目を閉じる。

 

音が消える。

 

聞こえるのは風のざわめきと、かすかに擦れ合う花々の吐息だけ。

香りがゆっくりと肺を満たし、脈のように体の隅々へ沁みわたっていく。

 

 

 

視界を閉じたまま、あたりに満ちる空気の色を思う。

紫ではない。

もっと透明で、けれど確かに熱を持っていた。

 

目を開けると、雲がひとつ、頭上に浮かんでいる。

それはまるで、大地を抱きしめようと降りてきた誰かの片腕のようで、

この広大な紫の迷宮に彷徨う者を、そっと導いているかのように見えた。

 

 

 

どこまで続くのだろう。

花の絨毯は地平のかなたへと溶けるように伸びていた。

 

歩き出す。

ひとつひとつの足音が、土にしずかに吸い込まれていく。

 

振り返ると、もう来た道は霞んでいた。

まるでこの場所は、前に進む者しか受け入れないような、

そんな静かな厳しさをたたえていた。

 

 

 

空はどこまでも澄んでいた。

夏の盛りの色ではない。

青の向こうに白が潜んでいるような、そんな微細な濁りを孕んでいた。

 

だからこそ、地に咲く花々の色は際立ち、

それはまるで、光そのものを地上に根づかせたようでもあった。

 

 

 

途中、風が強く吹いた。

花々が一斉に波打ち、海のようなうねりが大地を渡っていった。

 

その瞬間、私は自分がとても小さな存在であることを知った。

 

ひとつの花にも、ひとつの風にも、抗うことなどできない。

けれど、ただ静かに受け入れることでしか得られない何かが、

この場所にはあった。

 

 

 

背中に太陽を感じる。

午後がゆっくりと始まり、光が少しずつ角度を変えてゆく。

 

花々の影が長くなり、紫の海は次第に金の揺らぎを帯びはじめた。

 

その美しさに、言葉はひとつも浮かばなかった。

ただ、足を止めて見つめるしかなかった。

 

 

 

歩き続けているのに、同じ景色の中をぐるぐると巡っている気がする。

しかし、ほんのわずかずつ、確かに何かが変わっている。

 

風の向き。

香りの深さ。

空の色。

そして、自分の胸の中にある、なにかとても遠い記憶の位置が。

 

 

 

その記憶は、白かった。

一面の雪景色のように。

あるいは、朝靄のように。

 

その白の中に、今目の前に広がる紫の花が、たしかに揺れていた。

遠い昔、それを見たような気がする。

それが現か夢かもわからぬまま、私はまた歩き出す。

 

 

 

一匹の蝶が、前を横切る。

花の上に舞い降りるでもなく、どこかへ急ぐふうでもない。

ただ、風の流れに身を任せるようにして、空へと登っていく。

 

その白い翅が空の青に溶けてゆくとき、

私はこの地を、決して忘れてはいけないと心に刻んだ。

 

 

 

音のない鐘が、どこかで鳴ったような気がした。

それはこの土地が放つ、沈黙の声だったのかもしれない。

誰にも聞こえず、けれど確かにここに響いていた。

 

振り返ると、紫の大地が、

永遠の時を抱きしめるように、たたずんでいた。

 

 




言葉を重ねるほどに、この場所の記憶は遠ざかる気がする。

だからこそ、私は静かに歩き、目に焼きつける。


消えゆく風景を、
永遠に変わらぬまなざしで見つめながら。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。