泡沫紀行   作:みどりのかけら

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しんと冷えた空気に触れたとき、ふと胸の奥がわずかにふるえることがある。
言葉にできない感情は、いつも風や水や、石の沈黙のなかに静かに息をひそめている。
ただそこに立ち、耳を澄ませるだけで、目に映る景色がなにかを語りはじめる。

そんな夜が、あの場所にはあった。


祈りを刻む石の夢
0201 水鏡に映る鳥の詩


湿った風が頬を撫でた。

雪の重みで撓んだ枝が、しんとした空気の中でゆっくりと戻り、葉のない影を水面へと落とした。

水は凍らず、ただひっそりと眠るように澄んでいた。

 

川とも泉ともつかぬその水辺に、蒼い月の光が滲み、岩の輪郭が仄かに浮かぶ。

音はすべて凍てつき、足音すら雪の上で吸い込まれていく。

息は細く、白く、ひととき空を彷徨ったのち消える。

 

山肌の奥深く、谷の口はすでに夜の帳に閉ざされ、ただ仄かな灯火が、あたたかさではなく、どこか遠い記憶のように揺れていた。

 

石畳に残る濡れた足跡は、すでに風に滲み、雪の吐息に消えかけていた。

そこに誰かがいたのか、あるいは自分がもう戻れぬ先へと進んできたのか、境界は曖昧で、確かなものは足元の冷たさだけだった。

 

木々の影が折り重なり、月の光をさえぎりながら道を形作る。

夜の山は、あらゆるものを包み隠す。音も、色も、名すらも。

 

そのなかで、ただ一つ、あまりに澄んだ音がした。

 

水面に落ちた氷の粒が、はじけるように鳴った。

波紋が円を描き、月の影をゆらした。

 

見上げた空には、雲ひとつなく、星が静かに光を重ねていた。

 

背の低い岩の上に腰を下ろし、掌を袂に忍ばせる。

指の先から伝わる冷たさが、なぜか心地よく感じられた。

遠く、湯けむりのような白が風に流れ、杉の幹に淡くからまる。

その向こう、微かに香る木の皮の香り。

焚かれた薪の痕跡が、まだこの谷に誰かがいた証を語っている。

 

そのとき、不意に――低く、細く、ふるえるような声が聞こえた。

 

風の音でも、木々の軋みでもない。

 

それは鳥の声だった。

 

この季節、この深い雪の夜に、まだ鳴くものがあるのだと、思わず息を止める。

 

鳴き声は、どこか遠くから、あるいはすぐ傍らから。

音の来処は定かでなく、それでも確かに胸の内に届いた。

 

鳴き終えたあとの静寂は、むしろその存在を強く焼きつける。

声の余韻が、雪の上に落ち、音のない花のようにひらく。

 

静かだった。すべてが、しんと静かだった。

 

それでも、心のどこかが確かに震えていた。

 

氷の縁に立つ一本の木の枝が、風もないのにふるえた。

 

細い影が、水面にひとつの詩を描いていた。

 

枝先から舞い落ちた雪が、水面にそっと触れた。

わずかな音すら立てず、ただその重みに応えるように、水は一瞬、ふるえた。

 

その揺れのなかに、鳥の影が映ったような気がした。

羽ばたきの気配もなく、ただそこに在るという奇跡のように、ひととき浮かび、やがて闇に溶けた。

 

冷たい石に背を預けると、背骨を通じて土の冷えが伝わってきた。

その冷たさは厳しさではなく、むしろ穏やかに、内側に沈んでゆくための静けさだった。

 

風がわずかに向きを変え、どこかから湯の匂いが漂ってくる。

湧き出すもののぬくもりが、谷の深みで蒸気となり、夜空へと消えていく。

 

見えないその源が、夜の底で脈を打つように存在している。

地の奥から湧き上がる水は、永い眠りの夢を見ているようだった。

 

月が山の稜線に近づき、影がすこしずつ長くなっていく。

雪に埋もれた道の縁に、小さな石が並んでいた。形も大きさも不揃いで、けれどなぜか等しい間隔を保っている。

 

人の手が加えられた痕跡だろうか。

ただの偶然が重なっただけかもしれない。

そのあいまいな距離感が、むしろ静けさを深くする。

 

ひとつの石に手を触れる。

雪を払い、冷たく乾いた表面に指先を置く。

何も刻まれてはいない。ただの石。

 

けれど、そこに何かが在ったような気がする。

 

まるで言葉にならない願いが、かつてそこに触れた誰かの指を通じて、いまもなお微かに残っているように。

 

空が少し、白んできた。

 

夜と朝のあわいは、あまりに静かで、心の奥まで透かしてくる。

鳥の声はもう聞こえなかったが、その余韻だけが風のなかに残っていた。

 

ふと、指先に温もりを感じる。

 

石の冷たさとは異なる、じんわりとした熱が、掌に滲みる。

それは、ただ歩いてきた距離が積もっただけの熱かもしれない。

けれど、どこかで誰かが、見えぬところで灯した火のかけらが、こうして届いたようにも思えた。

 

立ち上がると、雪がわずかに崩れた。

足元にしずくがひとつ、こぼれ落ちる。

 

水面は、すでに凪いでいた。

鳥の詩も、石の記憶も、すべてがそこに映り込み、そして溶けていった。

 

歩き出すと、背後でひとひらの雪がまた枝から落ちた。

その音が、ささやかな祈りのように夜に響いた。

 

そしてまた、静寂。

 

ゆっくりと、朝の光が、雪を透かして差し込んできた。




水面に映ったものは、風に揺れて消えていくけれど、たしかにそこにあったと、肌が覚えている。
すべては通りすぎる。音も、光も、想いも。
それでも、雪を踏むたび、足もとにそっと何かが残る。

それだけで、静かに歩いていけるような気がする。
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