泡沫紀行   作:みどりのかけら

203 / 1184
静かな午後だった。
風はやわらかく、光は透きとおり、土の奥深くから、長い眠りの音が聞こえてくるようだった。

名もない道を歩いていた足は、いつの間にか金色のひかりに包まれ、心はただ、そのひかりのなかへと滲んでいった。
言葉より先に届く景色がある。
触れたものすべてが、やがて夢になるような。


0203 金色の海にまどろむ午後

土の匂いがあたたかく息づいていた。

胸の奥の、もっと深いところにまで、陽に焦がされた土のぬくもりが染みてくる。

柔らかな風が、長い坂の上から静かに降りてきて、指先の影を揺らした。

 

足もとには、名も知らぬ草が細やかに芽吹いていた。

地を這うように伸びたその緑の先に、ひとつ、またひとつと、薄黄色の花が顔を出す。

目を凝らせば、それは草ではなく、菜の花のはじまりだった。

 

遠くへ続く道が、霞む。

その霞は空の青に溶け、見えない水平線をかすかに染めていた。

そこに漂う光は、春のひかり。すべてを包み込み、際限なくほどいていくひかり。

輪郭を失った風景が、ひとつの大きな夢に溶けていくように広がっていた。

 

踏みしめるたび、土は静かに沈んだ。

沈む音は聞こえないが、足の裏に小さな重みとして残る。

誰かの記憶を辿っているような、遠いものに触れてしまったような、奇妙な感覚があった。

草の間に、小さな石がいくつも散っている。

丸く削られたものもあれば、角ばったものもある。

白に近い灰色が陽に照らされ、少しだけ金色に光っていた。

 

そこから視線を上げると、一面に菜の花が広がっていた。

溶けた金の海のようだった。

風が通り抜けるたびに、波が生まれる。

小さな揺れが連なり、静かなうねりとなって、地平の向こうまで続いていた。

茎は細く、しなやかで、けれど確かに地に根ざしていた。

力強いものではなく、やさしい粘りを持った生きもののように、そこにいた。

 

立ち尽くしていると、陽の匂いが肌に染みてきた。

草の青さ、土の乾き、花のかすかな蜜の香り、それらすべてが空気のなかに溶けて、音のない音楽のように漂っていた。

背を少し丸め、肩を緩める。瞼の裏が、やわらかく金色に染まる。

 

そのとき、どこからか、ひばりの声が降りてきた。

空は見えなかった。

ひかりがまぶしすぎて、天がどこにあるのかわからなかった。

それでも、確かにその声だけが届いてきた。

どこか懐かしく、名を呼ばれているようでもあった。

 

足を止めると、時間もまた、歩みをやめたようだった。

影が少し伸び、風の向きが変わる。

菜の花の海がさざめき、その音が胸の奥にまで響いた。

身体の奥に、遠い季節が眠っているような気がした。

記憶ではなく、もっと以前の、言葉にもならない何かが、目を覚まそうとしていた。

 

指先に、ひとひらの花びらが触れた。

ふと見れば、どこかの茎からはらりと落ちたばかりのものだった。

つまむと、やわらかく、ほんのわずかに湿っていた。

風の行方を忘れ、ただ、その小さな黄色を見つめていた。

しばらくして、掌を開くと、花びらはもうそこになかった。

風にさらわれたのか、あるいは最初から、何も持っていなかったのかもしれなかった。

 

空の深さを測ろうと、ひとつ息を吸った。

風が肺の奥まで流れ込み、身体の隅々にまで春が届いた。

うすく汗ばむ首筋に、陽が降り注いでいる。世界が眠っているような午後。

金色のまどろみのなかで、まぶたの裏側に、ゆっくりと何かが芽吹いていくのを感じた。

 

足もとの土が、かすかに脈を打つように感じられた。

歩みを進めるたび、菜の花の香りが濃くなる。

ひとつの香りの中に、いくつもの層があることに気づく。

蜜の甘さ、茎の青さ、地面に落ちた葉の乾いた匂い、それらすべてが春という名の膜の内側で、混ざり合い、溶け合い、ひとつの風になる。

 

歩くほどに、光が身体のなかを洗い流していくようだった。

何かが抜け落ちていく感覚があった。

名もない想い、忘れられた声、形にならなかったまま沈んでいった祈りのようなものが、少しずつ、風に乗って溶けていく。

 

広がる菜の花の海のなかに、ぽつりと佇む石があった。

長く陽に照らされてきたその石は、あたたかく、ひとつの命のように呼吸していた。

掌ほどの大きさ。苔も、泥も、風の痕も残っている。

けれどそれらすべてが、まるで祝福のように見えた。

 

近づいて腰をおろすと、草が擦れる音がした。

座った大地がゆっくりと沈み、背に風が巡る。

沈黙の中に、小さな音が無数にあった。

風に揺れる花の囁き、飛び交う虫の羽音、陽が葉を照らす音。

音というより、気配だった。

見えないものたちの息づかいが、ひとつの静寂としてそこにあった。

 

石に手を置く。

温度が伝わる。

冷たくもなく、熱すぎることもない。ぬくもりというより、時が宿っているような触れ心地だった。

何百もの季節がここを通り過ぎ、何も語らず、けれど確かに積み重なったものが、石の表面に眠っているように思えた。

 

視線を上げると、あたり一面が黄金の波だった。

風が吹き抜けるたび、花々は細やかに揺れ、まるでどこか遠いところから響いてくる言葉のようだった。

意味のない、けれど意味よりも深い何か。

胸の奥が、それを静かに受け取っていた。

 

額に、陽の熱が触れる。

しばらくのあいだ、目を閉じていた。

闇ではなかった。

まぶたの裏にも、菜の花の光があった。

金色の粒子がゆるやかに揺れながら、呼吸と共に身体の内と外をめぐっていた。

 

まどろみが訪れたのは、それからすぐのことだった。

意識の奥がとろけていく。

どこまでも静かで、傷のない眠り。

身体の重さだけが地に溶けていき、魂のかけらが風に乗って、どこかへゆっくり運ばれていくようだった。

 

それは眠りというより、還ることに近かった。

懐かしさも悲しさもない、ただ静かな帰還。

花の海に沈みながら、世界とひとつに溶けていく時間。

輪郭を失った存在が、春の奥で、ゆっくりと溶けていった。

 

微睡のなか、風の音がふたたび聞こえた。

さざ波のように連なる菜の花のざわめき。

見えない手が頬を撫で、名もない夢が目の前を通り過ぎる。

金色の午後。あたたかさだけが、すべてを包んでいた。

 

やがて影が伸び、陽が傾きはじめても、菜の花の海は変わらずそこにあった。

すべてを抱き、すべてを許し、すべてをまどろみの中へと運ぶように、静かに、静かに揺れていた。




空には雲ひとつなかった。
すべてが流れ去ったあとのように、風はしんと静まり、草の音だけが残っていた。

歩いてきた道を振り返ることはなく、ただ金色の光が、まぶたの奥にうすく残っていた。
何も語られなかったが、それで十分だった。
春は、すでに胸の中に咲いていた。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。