風はやわらかく、光は透きとおり、土の奥深くから、長い眠りの音が聞こえてくるようだった。
名もない道を歩いていた足は、いつの間にか金色のひかりに包まれ、心はただ、そのひかりのなかへと滲んでいった。
言葉より先に届く景色がある。
触れたものすべてが、やがて夢になるような。
土の匂いがあたたかく息づいていた。
胸の奥の、もっと深いところにまで、陽に焦がされた土のぬくもりが染みてくる。
柔らかな風が、長い坂の上から静かに降りてきて、指先の影を揺らした。
足もとには、名も知らぬ草が細やかに芽吹いていた。
地を這うように伸びたその緑の先に、ひとつ、またひとつと、薄黄色の花が顔を出す。
目を凝らせば、それは草ではなく、菜の花のはじまりだった。
遠くへ続く道が、霞む。
その霞は空の青に溶け、見えない水平線をかすかに染めていた。
そこに漂う光は、春のひかり。すべてを包み込み、際限なくほどいていくひかり。
輪郭を失った風景が、ひとつの大きな夢に溶けていくように広がっていた。
踏みしめるたび、土は静かに沈んだ。
沈む音は聞こえないが、足の裏に小さな重みとして残る。
誰かの記憶を辿っているような、遠いものに触れてしまったような、奇妙な感覚があった。
草の間に、小さな石がいくつも散っている。
丸く削られたものもあれば、角ばったものもある。
白に近い灰色が陽に照らされ、少しだけ金色に光っていた。
そこから視線を上げると、一面に菜の花が広がっていた。
溶けた金の海のようだった。
風が通り抜けるたびに、波が生まれる。
小さな揺れが連なり、静かなうねりとなって、地平の向こうまで続いていた。
茎は細く、しなやかで、けれど確かに地に根ざしていた。
力強いものではなく、やさしい粘りを持った生きもののように、そこにいた。
立ち尽くしていると、陽の匂いが肌に染みてきた。
草の青さ、土の乾き、花のかすかな蜜の香り、それらすべてが空気のなかに溶けて、音のない音楽のように漂っていた。
背を少し丸め、肩を緩める。瞼の裏が、やわらかく金色に染まる。
そのとき、どこからか、ひばりの声が降りてきた。
空は見えなかった。
ひかりがまぶしすぎて、天がどこにあるのかわからなかった。
それでも、確かにその声だけが届いてきた。
どこか懐かしく、名を呼ばれているようでもあった。
足を止めると、時間もまた、歩みをやめたようだった。
影が少し伸び、風の向きが変わる。
菜の花の海がさざめき、その音が胸の奥にまで響いた。
身体の奥に、遠い季節が眠っているような気がした。
記憶ではなく、もっと以前の、言葉にもならない何かが、目を覚まそうとしていた。
指先に、ひとひらの花びらが触れた。
ふと見れば、どこかの茎からはらりと落ちたばかりのものだった。
つまむと、やわらかく、ほんのわずかに湿っていた。
風の行方を忘れ、ただ、その小さな黄色を見つめていた。
しばらくして、掌を開くと、花びらはもうそこになかった。
風にさらわれたのか、あるいは最初から、何も持っていなかったのかもしれなかった。
空の深さを測ろうと、ひとつ息を吸った。
風が肺の奥まで流れ込み、身体の隅々にまで春が届いた。
うすく汗ばむ首筋に、陽が降り注いでいる。世界が眠っているような午後。
金色のまどろみのなかで、まぶたの裏側に、ゆっくりと何かが芽吹いていくのを感じた。
足もとの土が、かすかに脈を打つように感じられた。
歩みを進めるたび、菜の花の香りが濃くなる。
ひとつの香りの中に、いくつもの層があることに気づく。
蜜の甘さ、茎の青さ、地面に落ちた葉の乾いた匂い、それらすべてが春という名の膜の内側で、混ざり合い、溶け合い、ひとつの風になる。
歩くほどに、光が身体のなかを洗い流していくようだった。
何かが抜け落ちていく感覚があった。
名もない想い、忘れられた声、形にならなかったまま沈んでいった祈りのようなものが、少しずつ、風に乗って溶けていく。
広がる菜の花の海のなかに、ぽつりと佇む石があった。
長く陽に照らされてきたその石は、あたたかく、ひとつの命のように呼吸していた。
掌ほどの大きさ。苔も、泥も、風の痕も残っている。
けれどそれらすべてが、まるで祝福のように見えた。
近づいて腰をおろすと、草が擦れる音がした。
座った大地がゆっくりと沈み、背に風が巡る。
沈黙の中に、小さな音が無数にあった。
風に揺れる花の囁き、飛び交う虫の羽音、陽が葉を照らす音。
音というより、気配だった。
見えないものたちの息づかいが、ひとつの静寂としてそこにあった。
石に手を置く。
温度が伝わる。
冷たくもなく、熱すぎることもない。ぬくもりというより、時が宿っているような触れ心地だった。
何百もの季節がここを通り過ぎ、何も語らず、けれど確かに積み重なったものが、石の表面に眠っているように思えた。
視線を上げると、あたり一面が黄金の波だった。
風が吹き抜けるたび、花々は細やかに揺れ、まるでどこか遠いところから響いてくる言葉のようだった。
意味のない、けれど意味よりも深い何か。
胸の奥が、それを静かに受け取っていた。
額に、陽の熱が触れる。
しばらくのあいだ、目を閉じていた。
闇ではなかった。
まぶたの裏にも、菜の花の光があった。
金色の粒子がゆるやかに揺れながら、呼吸と共に身体の内と外をめぐっていた。
まどろみが訪れたのは、それからすぐのことだった。
意識の奥がとろけていく。
どこまでも静かで、傷のない眠り。
身体の重さだけが地に溶けていき、魂のかけらが風に乗って、どこかへゆっくり運ばれていくようだった。
それは眠りというより、還ることに近かった。
懐かしさも悲しさもない、ただ静かな帰還。
花の海に沈みながら、世界とひとつに溶けていく時間。
輪郭を失った存在が、春の奥で、ゆっくりと溶けていった。
微睡のなか、風の音がふたたび聞こえた。
さざ波のように連なる菜の花のざわめき。
見えない手が頬を撫で、名もない夢が目の前を通り過ぎる。
金色の午後。あたたかさだけが、すべてを包んでいた。
やがて影が伸び、陽が傾きはじめても、菜の花の海は変わらずそこにあった。
すべてを抱き、すべてを許し、すべてをまどろみの中へと運ぶように、静かに、静かに揺れていた。
空には雲ひとつなかった。
すべてが流れ去ったあとのように、風はしんと静まり、草の音だけが残っていた。
歩いてきた道を振り返ることはなく、ただ金色の光が、まぶたの奥にうすく残っていた。
何も語られなかったが、それで十分だった。
春は、すでに胸の中に咲いていた。