泡沫紀行   作:みどりのかけら

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足元に落ちた雫が、ゆっくりと土に溶けてゆく。
風はまだ目覚めておらず、葉の上に宿るものたちも静かなまま。

ある場所では、雨が庭の色を深くし、音をまるくする。
名もなく、声もなく、けれど確かに生きている時が、そっと、すべてを包んでいた。


0205 雨音に揺れる幻の庭

霧のように細い雨が、草のひとつひとつにそっと触れていた。

柔らかな斜面に、重なり合う紫の葉鞘。遠くに霞む輪郭は、ゆっくりと濡れてゆく記憶のようだった。

 

道はかすかにうねりながら続き、苔むす石段が緑の眠りに沈みかけている。

ひとつひとつの石が、それぞれの時を抱いているようで、足を置くたびに、昔語りのような音を立てた。

ぬかるみは浅く、泥は温く、指先で触れたらたちまち溶けてしまいそうな、春の肌をしていた。

 

風は、ほとんど吹いていなかった。

その代わり、雨が葉を打ち、葉が雨を返す音だけが響いていた。

地面から立ちのぼる匂いは、淡く焦がした草の乳香。

それが鼻腔をくすぐるたび、どこか遠い昔に読んだ祈りの断片が、胸の奥にふと浮かんでは消えた。

 

木々のあいだを縫うように、薄紫の花が幾重にも咲き乱れている。

名もない夢のような花々は、なにかを語りかけるように、重たげな花弁をうつむかせていた。

その一輪に、ひとしずくの雨が、ゆっくりと落ちて、またゆっくりとこぼれ落ちた。

 

時の流れは、水音のなかでほどけていく。

歩を進めるごとに、音と色と匂いが重なり、いくつもの記憶ではない記憶が背中を撫でていく。

それはどこか懐かしく、けれど決して掴めない。

春の霧に包まれたこの庭は、ほんのわずかな願いのように、ただそこに息づいていた。

 

枝の先に咲く、小さな白い花が、ひとつ、ふたつ、風もないのに揺れている。

見上げれば、梢の先に光がうっすらと差し、雨粒がその光を裂いて、透明な糸となって垂れていた。

指を伸ばせば届きそうなその糸は、触れればたちまちほどけてしまいそうで、ただ見つめるしかなかった。

 

奥へ進むにつれて、紫は青へ、青は薄紅へ、そして淡い緑へと溶けていく。

色が移ろうにつれ、空気は冷たさを帯び、肌にしっとりと絡みつく。

袖口の布が重たくなり、掌がかすかに震えた。

だがその震えも、どこか遠くのもののようで、体の輪郭さえ曖昧になってゆくのを感じた。

 

一枚の葉が、ひっそりと地に落ちる。

その音は、どこか遠くの鐘のようで、歩みを止めさせた。

振り返っても、そこにはただ、雨に濡れた道があるだけだった。

 

静寂のなかに沈む庭。

足元の土は柔らかく、踏みしめるたびに、音もなく形を変えた。

草のあいだに、かすかに赤い実をつけた枝がのぞいていた。

それはまるで、まだ誰にも見つけられていない想いのようで、そっと手を伸ばしかけたが、やはり指先を添えることはなかった。

 

時折、空を走るようにして、雲の奥から鳥の羽ばたく気配がした。

見えはしない。けれど確かに、それはあった。

その気配のあとに訪れる、雨脚のわずかな変化。

 

まるで、空までもが庭に祈りを注いでいるようだった。

 

水面のように静かな地の奥から、微かに立ちのぼる温もりがあった。

それは土の記憶か、あるいは踏みしめてきた数えきれない足跡の残像か。

足元に広がる草は、雨粒を宿したままゆるやかに呼吸しており、まるで眠る獣の背のようだった。

 

道の端には、風化した石がぽつぽつと並び、そのひとつひとつに、どこか遠い名残が宿っていた。

かすれた苔の模様が、あるいは名か、あるいは祈りか。

指をなぞらずとも、そこに込められたものの重さが、肌を通して沁み込んでくる。

 

耳を澄ませば、雨の音の奥に、ささやくような音がある。

枝葉が語らう音。

石が眠りながら歌う音。

雨に濡れた木の幹が、内に抱く言葉を少しだけ漏らす音。

 

音のない言葉たちが、歩みの間に滲み出し、心のどこか深い場所にしずかに触れてくる。

ひとつひとつの感触が、すでにどこかで知っていたような懐かしさを帯びて、名前を持たない記憶として、奥底に沈んでゆく。

 

小さな橋を渡る。

手すりのない石の橋は雨に濡れて滑りやすく、足裏に伝わる感触が生々しい。

その橋の下では、小さな流れが、黒い影を抱いていた。

魚影か、それともただの水のゆらぎか。

どちらでもよく、ただその存在が、この庭のどこか深い部分とつながっていることだけが確かだった。

 

その先の空間に、広がるひとつの沈黙があった。

そこには音すら雨の外套を纏い、輪郭を失っていた。

 

大きな木の根元に、誰が置いたのか、ひとつの石が座している。

手のひらほどのその石は、まるで長い眠りから目覚めたばかりのように、湿った光を湛えていた。

そっと手を近づけると、そこにはほんのわずかな温度が残っており、それに触れた瞬間、胸の奥に知らぬ痛みが灯った。

それは過去でも現在でもない、名もない感情の気配だった。

 

その場に立ち尽くしているうちに、雨脚がほんの少し、細くなってきた。

雲の裂け目のどこかで、淡い光が生まれかけているのかもしれない。

 

その光はまだ届かないが、木々の間の空気は、わずかに明るさを帯びていた。

遠くの葉が、雫をひとつ落とす。

その雫は音もなく、濡れた苔に吸い込まれた。

 

歩みを再び始めると、すぐに足元に、鳥の羽が落ちていた。

小さく、白く、雨に濡れてはいたが、まだどこか空の匂いを残している。

それを拾いはしなかったが、しばらく見つめてから、そっとその場を離れた。

 

庭はまだ奥へと続いている。

けれどそのすべてを辿る必要はなかった。

足裏に残るぬくもりと、指先に触れた微かな石の鼓動、雨音に揺れる葉のささやき。

 

それらが、この場所で出会ったすべてだった。

 

振り返ることなく、雨の庭をあとにした。

背を向けても、なお背中に降り注ぐ気配がある。

まるで名を持たぬ祈りが、いまも降り続いているように、静かに、ただ静かに、そこにあるのだった。




雨はやがて止み、雲の隙間からこぼれた光が、
濡れた草葉をひとつひとつ、やさしく撫でていた。

すべてが夢だったように、何もかもがそのまま、
そこにあった。

土の匂い、花の沈黙、石の鼓動──
いまも、どこかで呼吸を続けている。
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