泡沫紀行   作:みどりのかけら

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秋の風に揺れる葉のざわめきに、なぜか遠い記憶の輪郭が重なることがある。
色づいた梢の下をひとり歩くとき、過ぎ去ったものたちの気配が、静かに地の底からせり上がってくる。
それは名を持たず、言葉にもならず、ただ風や石の温度として、そっと手のひらに触れてくるもの。

今この瞬間にしか現れない、かすかな揺らぎのなかで、心が何かを受け取ることがある。
それは、旅の道すがら見落としかけた、小さな光だったのかもしれない。


0208 千年の階を歩むもの

濡れた落葉が足裏に張りついた。

ふとした風の気まぐれで、梢の影が斑に揺れては、くぐもった光が苔の上を移ろう。

乾いたはずの空気に、まだ微かに夏の名残が残っている。

だが、それは指先にふれた瞬間に、崩れて消える儚い皮膜のようだった。

 

土の匂いが強い。

風に混じって、鉄のような、眠っていた石の血のにおいが呼び起こされる。

かすかな腐葉土の甘みとともに、奥へ奥へと手招きする気配がある。

誰かの視線に似ていて、けれど誰のものでもない。

そこにいる、というより、そこにいた、という残響のようなもの。

 

濡れた坂道は静かだった。

急ではないのに、ひと息に登ることは赦されない。

段差のすべてに、何かが沁み込んでいる。

踏むたびに、内にあるものがわずかに軋むのがわかる。

石段の間に張りついた苔はまるで生きているようで、靴底の圧に耐えることなく、柔らかく身をよじらせていた。

 

冷たい。

 

石に手を添えると、指の腹から熱が吸われた。

長い時を抱えたものは、こうして触れる者の思考を追い越して、深いところに降りてくる。

目を閉じたくなる。

いや、閉じていたのかもしれない。

赤く色づいた葉が一枚、肩に落ちた。

 

振り返ると、歩いてきた道が霞んでいた。

木立が重なり、霧に似た光が枝の隙間を縫って、薄衣のように降り積もっている。

声もなく、音もなく、ただそこに在るものたちだけが、この時を生きている。

遠くから水の音が聞こえた。けれど、姿は見えない。

 

前へ。

 

そう思うよりも早く、身体は歩いていた。

坂道の先に見えたものは、門とも、影ともつかぬ黒い輪郭だった。

そこだけ時が逆巻いているように、風が動かない。ひとつの石に手を置き、そのまままぶたを閉じた。

 

なぜだかわからないが、心の内に浮かぶのは、手放した名の響きだった。

誰にも呼ばれなくなった名は、風に解かれて漂っていく。

けれどこの場所では、それすらも受け入れてくれるような気がした。

名を持たないものとして、ただ歩き続けることが許される気がした。

 

階の途中、脇に逸れる小径があった。

砂を敷いたような白さが、落葉と混じって淡く光を返していた。

そこへ足を向ける。誰もいない。

だが、誰もいないということの深さを知るのは、こうした時だった。

枝の間に差す光が、細く、長く、地面を裂いている。

 

石が並ぶ。

その上には、名も刻まれていないものもあった。

苔が文字のように浮き上がり、自然と人工の境界が滲んでいた。

しばらくその場に立ち、何かを探すように視線を巡らせる。

けれど、探しているものが何なのかは、わからない。

ただ、探しているという感覚だけが確かだった。

 

そして再び、石段へ。

 

肩に乗った葉は、いつのまにか消えていた。

空を見上げると、枝先で二枚、風に揉まれて揺れていた。

落ちるか、落ちないか。

その境界で留まり続けることも、またひとつの祈りかもしれないと思った。

 

歩みのひとつひとつが、音にならない音を立てていた。

耳ではなく、胸の奥で聴くような気配。

かつてここを歩いた誰かの記憶が、足元に重なっている。

そこに気づいてしまったとき、世界が少しだけ沈黙する。

 

それは恐れではない。

名付けることのできない安らぎのような、まるで石に眠る夢に触れたかのような静けさだった。

 

木の根が浮き出た段差を越えるたび、足裏に重さが残った。

歩みは確かであるはずなのに、身体の輪郭が少しずつ滲んでいく。

葉擦れの音が遠のき、代わりに、誰かの祈りが土の下から染み出してくるようだった。

言葉ではなく、形でもなく、ただ気配だけを持って、そこに在る。

 

振動のようなものがあった。

目には見えず、指先にも届かないが、胸の奥に微かな鼓動として感じられる。

何かが続いている。何かが終わっていない。

そんな思いが、歩くたびに深く刻まれていく。

階の数を数えようとして、やめた。それは意味のないことだった。

ここに数はない。ただ、在るべきものが在るだけだった。

 

小さな澱みがあった。

石のくぼみに溜まった雨水に、黄金の葉が浮かんでいた。

息を止めて覗きこむと、曇った空が映り込んでいる。

そこに自分の姿はなかった。風が吹けば、葉が揺れる。

だが、水面は動かない。

時間だけがそこに閉じ込められているように、沈黙が濃くなっていく。

 

指で触れてみる。

水は冷たいはずなのに、温度の感覚がどこか曖昧だった。

触れたはずの指先が、何かに撫でられたような錯覚を残した。

瞬きの間に、葉がひとつ、水底へ吸い込まれていった。

浮かぶことなく、音もなく。

 

先を歩く。

 

石の肌が変わっていた。

粒が細かくなり、まるで誰かの掌が幾度も触れた末に磨かれたような、滑らかさがあった。

そのなめらかさには、長い歳月の重みがあり、同時に、誰かの祈りが眠っているようでもあった。

祈るという行為の静けさは、決して声に出されるものではない。

ただ、跪き、触れるということ。身を傾け、眼を閉じるということ。

それだけで十分だった。

 

一匹の虫が、石段を横切った。

翅を持たないその小さな命は、黙って進む。

誰にも見つからぬまま、誰にも知られぬまま、その短い旅を続けている。

足元を通り過ぎたその影に、しばし眼を落とす。そして、また歩き出す。

 

木々の隙間から、光が射した。

先ほどよりもいくぶん白く、乾いた印象をもっていた。

空が晴れたのかもしれない。だがそれを見上げることはしない。

光は目ではなく、肌で受け取るものだと、どこかで知っていた。

額に差すあたたかさが、いくつもの過去を淡く照らし出す。

 

ひとつ、名のない祠があった。

屋根は低く、木の根に飲まれそうになりながらも、まだそこに在り続けている。

苔に包まれた柱には、かすかな彫りが残っていた。

判別できるものではない。

ただ、その手の形跡だけが、確かに刻まれている。

誰かがここに立ち、手を合わせ、眼を伏せたこと。

それだけが、静かに息づいていた。

 

手のひらを重ねてみる。

何も起こらない。ただ、内側の音が静かになった。

 

祠のそばに腰をおろし、しばし風に身を預ける。

土のにおいが近い。

湿った草の感触が衣に沁みて、秋という季節が、ただの言葉ではなく、呼吸の一部として混ざっていく。

 

遠くで鳥が鳴いた。

声は細く、かすかだったが、確かにそこに命の証があった。

その音が聞こえるということ。

それだけで、この世界とまだ繋がっているということを、知らされる。

 

再び立ち上がる。

階は続いていた。

上へ、また上へ。

歩みの重さが、心の重さと重なっていく。

だが、嫌ではない。重さは、意味ではない。

意味を求めないことの静けさが、ここにはあった。

 

踏みしめるたび、どこかで音がしたような気がする。

耳ではなく、記憶のどこかで。

かつての誰かの足音かもしれないし、未来の誰かの気配かもしれない。

 

空気が変わった。冷たさの中に、乾いた香りが混じる。

木の葉の色が、さらに深まっていた。

赤というよりも、もはや黒に近い。

風が吹けば、枝が鳴る。

その響きは、まるで深い井戸の底から届く声のようだった。

 

それでも、階を登り続ける。

 

終わりがあるのか、それとも既に終わりの中にいるのか。

それを知ることは、重要ではなかった。

石の夢は続いている。

そこに触れるたび、胸の奥で微かな光が灯る。

 

それは、声にならない祈りのようだった。




言葉にならなかったものたちは、やがて風に還る。
触れることも、名づけることもできなかったそれらは、ただ静かに地に溶け、時に石の夢として息をひそめる。
歩いた階の感触は、足裏に残ったまま、もう声にはならない。
だが、ふとした瞬間に、その重みが胸の奥でさざめくことがある。

それを祈りと呼ぶかどうかは、それぞれの心に委ねられている。
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