風が少しずつ声を落としていった。
ただひとつ、遠くに見えていた白の巨影が、
静かにその姿を霧へと溶かしていくのを、わたしは息をひそめて見ていた。
柔らかな灰が、
空から降るような朝だった。
地を覆う苔の絨毯が、水を含んだ銀の陽を吸い込み、肌に冷たくひやりとした。
枝先の露が風に揺れて、無音の音楽を奏でるように細かく光っていた。
わたしは、無言の峠道をひとり、東へ向かって歩いていた。
足元の土は黒く、かたく、斜面を登るたびに靴裏を吸いつけて離さない。
振り返れば、低く揺れる雲が遥かな森を呑み込んでいた。
それでも一歩ずつ登ってゆくうちに、
風は重たさを脱ぎ、息を吹き返した。
見上げると、そこにあった。
雲の切れ間、霧の裂け目に、
巨大な白い影が、沈黙のまま空に背を向けていた。
山というより、
これはもう、
ひとつの意志のように思えた。
黒曜の岩肌は剥き出しに裂け、
ところどころ白く乾いた灰が積もっている。
濃い霧があたりをゆっくりと這い、
まるで巨人の寝息が谷を満たしているようだった。
歩みを止め、わたしは立ち尽くす。
すべてが言葉の外にあった。
音も、熱も、命も、まるでこの場に足を踏み入れることを許されていないような。
それでも、歩いた。
外輪へと続く獣道は細く、鋭く切れ落ち、
両側には命の気配が消えていた。
虫も鳴かず、鳥も飛ばず、ただ霧がすべてを包んでいた。
やがて、風が一度だけ身を震わせ、
霧がふいに形を失いはじめた。
その瞬間、視界がひらける。
眼下に、黒くひび割れた火口原が現れた。
中心には、かつて何かが目を開けたような巨大な裂け目があり、
そこから白い煙が、静かに立ちのぼっていた。
あまりに静かで、あまりに深く、
そこには「今」がなかった。
何千年も前から時間を忘れたかのように、
この場所だけが、ただそこに在る、という事実だけで完結していた。
わたしは、その場にひざをついた。
頭上には、陽の光も、風の音もなく、
すべてが凍ったような静寂だった。
ただ、火口からのぼる白煙が、
薄く、細く、
まるで永遠の記憶のように、空へと滲んでいた。
そこにあるのは、怒りでも安らぎでもない。
ただひとつの静寂。
風が、またひとつ、地表を撫でる。
すると、あたりに低い鳴き声のような音が生まれた。
それは風ではなく、
地の奥からわきあがる声に近かった。
山が息をしている。
この場所が生きている。
言葉にできない感覚が、
足元から染みわたってくる。
わたしはゆっくりと立ち上がり、
背中の空に向かって一礼した。
この地を侵すためでなく、
ただ、記すためにここへ来たのだということを、
誰にでもなく、告げた気がした。
雲が再び流れ、
白の巨神はその姿をかき消してゆく。
わたしは足を引き、
来た道とは違う、より東の道を選ぶ。
振り返れば、もうそこには何も見えなかった。
白い霧だけが、風に溶けるように漂っていた。
だが、心のどこかに、
いま見た景色が音もなく刻まれている。
風の冷たさも、火口の気配も、
誰にも触れられぬ場所で、息づいていた。
霧の奥に現れたあの影は、
いまも姿を変えずそこにいるのだろう。
誰に語られることもなく、
ただ沈黙のまま、空と地の狭間に、
永遠を抱いて。