泡沫紀行   作:みどりのかけら

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足元の草を踏みしめるたび、
風が少しずつ声を落としていった。

ただひとつ、遠くに見えていた白の巨影が、

静かにその姿を霧へと溶かしていくのを、わたしは息をひそめて見ていた。


0021 霧の中の巨神

柔らかな灰が、

空から降るような朝だった。

 

地を覆う苔の絨毯が、水を含んだ銀の陽を吸い込み、肌に冷たくひやりとした。

枝先の露が風に揺れて、無音の音楽を奏でるように細かく光っていた。

 

わたしは、無言の峠道をひとり、東へ向かって歩いていた。

 

 

 

足元の土は黒く、かたく、斜面を登るたびに靴裏を吸いつけて離さない。

振り返れば、低く揺れる雲が遥かな森を呑み込んでいた。

 

それでも一歩ずつ登ってゆくうちに、

風は重たさを脱ぎ、息を吹き返した。

 

 

 

見上げると、そこにあった。

 

 

 

雲の切れ間、霧の裂け目に、

巨大な白い影が、沈黙のまま空に背を向けていた。

 

山というより、

これはもう、

ひとつの意志のように思えた。

 

黒曜の岩肌は剥き出しに裂け、

ところどころ白く乾いた灰が積もっている。

 

濃い霧があたりをゆっくりと這い、

まるで巨人の寝息が谷を満たしているようだった。

 

 

歩みを止め、わたしは立ち尽くす。

 

 

すべてが言葉の外にあった。

音も、熱も、命も、まるでこの場に足を踏み入れることを許されていないような。

 

それでも、歩いた。

 

外輪へと続く獣道は細く、鋭く切れ落ち、

両側には命の気配が消えていた。

 

虫も鳴かず、鳥も飛ばず、ただ霧がすべてを包んでいた。

 

やがて、風が一度だけ身を震わせ、

霧がふいに形を失いはじめた。

 

 

その瞬間、視界がひらける。

 

 

眼下に、黒くひび割れた火口原が現れた。

中心には、かつて何かが目を開けたような巨大な裂け目があり、

そこから白い煙が、静かに立ちのぼっていた。

 

あまりに静かで、あまりに深く、

そこには「今」がなかった。

 

 

何千年も前から時間を忘れたかのように、

この場所だけが、ただそこに在る、という事実だけで完結していた。

 

わたしは、その場にひざをついた。

 

頭上には、陽の光も、風の音もなく、

すべてが凍ったような静寂だった。

 

ただ、火口からのぼる白煙が、

薄く、細く、

まるで永遠の記憶のように、空へと滲んでいた。

 

そこにあるのは、怒りでも安らぎでもない。

ただひとつの静寂。

 

風が、またひとつ、地表を撫でる。

すると、あたりに低い鳴き声のような音が生まれた。

 

それは風ではなく、

地の奥からわきあがる声に近かった。

 

山が息をしている。

この場所が生きている。

 

言葉にできない感覚が、

足元から染みわたってくる。

 

わたしはゆっくりと立ち上がり、

背中の空に向かって一礼した。

 

この地を侵すためでなく、

ただ、記すためにここへ来たのだということを、

誰にでもなく、告げた気がした。

 

雲が再び流れ、

白の巨神はその姿をかき消してゆく。

 

わたしは足を引き、

来た道とは違う、より東の道を選ぶ。

 

振り返れば、もうそこには何も見えなかった。

白い霧だけが、風に溶けるように漂っていた。

 

だが、心のどこかに、

いま見た景色が音もなく刻まれている。

 

風の冷たさも、火口の気配も、

誰にも触れられぬ場所で、息づいていた。




霧の奥に現れたあの影は、
いまも姿を変えずそこにいるのだろう。

誰に語られることもなく、
ただ沈黙のまま、空と地の狭間に、

永遠を抱いて。
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