泡沫紀行   作:みどりのかけら

211 / 1181
風は、北の海辺に向かって吹いていた。
道の両脇には、かすれた記憶のような草のにおいが満ちていた。
人の足音よりも先に、夏がそこに息づいている。

その日、空は青く、潮の香りが、どこまでも深く染みこんでいた。

そこに、確かに「何か」があった。
それは名のつかないまま、風景の奥に佇んでいた。


0211 海の乙女と真夏の誓い

影のように長く伸びる崖の縁を、音もなく風が撫でていった。

陽は天頂で鈍く輝き、空の底に落とされたような海が、果てなく青を湛えている。

砂と小石の混じる小径は、照り返しに熱を帯び、足裏に確かな季節のかたちを焼きつけていく。

 

白くくぐもった潮の匂いが、どこからともなく立ちのぼっていた。

潮騒の音は遠く、まるで耳の奥に染みついた古い歌のようで、懐かしさと名づけるにはあまりにも静かに、心をほどいていく。

 

まばらな草むらのあいだから、濃く蒼い海が、切り絵のように現れる。

そこには、まるで神話の断片のような風景が、静かに在った。

削られた岩が、波を受けて鈍く光り、その傍らには、褐色の布を巻いた少女たちが立っていた。

 

彼女たちの肩に、濡れた陽光が降りそそぐ。

その肌は、幾たびも海に触れたものの色。

祈るようにして立つその姿は、あらゆる言葉よりも静かで、どこか遠くの季節へと繋がるようだった。

 

白い布が風にはためき、竹の柱に結ばれていた。

それは、誰かの夢を祝うためのものであり、誰かの記憶を見送るためのものでもあるのだろう。

 

岩のあいだから立ちのぼる潮煙の中で、少女たちは静かに舞っていた。

手に持つのは、貝殻を連ねた首飾り、あるいは、波の花を模した紙の飾り。

音のない音楽が、空気の奥でかすかに鳴っていた。

 

炎に似た赤い布が空を裂くように揺れ、それを包むように、海風がすべてを抱きしめる。

 

指先に、ひとしずくの冷たい海水が触れた。

その一滴に、遥かな時間が宿っていた。

誰かが笑い、誰かが泣き、そして、そのすべてが、やがて海へ還ってゆく。

 

岩と岩のあいだに、ひとつの小さな祠があった。

朽ちかけた木の香りと、火打ち石の焦げた匂いが、微かに漂っていた。

誰の手によってもたらされたのか、その中には、丸く磨かれた石がひとつ、そっと置かれていた。

 

掌ほどの大きさのその石には、細く彫られた線があり、それは波のようにも見え、風のようにも見えた。

陽を受けるたびに、青や金や、時に翡翠の色を見せるその石を、少女たちはひとりずつ、掌に載せていた。

 

言葉はない。

ただ、目を伏せ、風の音に身をゆだねている。

そこには、何かを願うでも、何かを祈るでもない、もっと静かな、深い約束のようなものがあった。

 

潮の満ち引きに合わせて、岩肌の模様が変わっていく。

波のあとに残された貝殻は、いずれ白く乾き、砂に還る。

そのすべてが、初めから知っていたかのように、なにも問わず、ただそこにあった。

 

空の色がすこしだけ柔らかくなった。

陽はまだ高いのに、影が少し長くなる。

そのわずかな変化の中で、夏が、ひとつだけ深くなったような気がした。

 

干した網の香りが、風に乗って漂ってくる。

陽に焼けた木の肌の上を、ゆっくりと手が滑っていくと、そこに刻まれた無数の傷に触れる。

誰かの手によって幾度となく触れられた木は、静かに、その時を語ることなく、すべてを受け入れていた。

 

少女たちは、波間を覗くように身をかがめ、かすかに笑むような気配だけを残して、海へと足を踏み入れていった。

陽を弾いた水面が、細かく震える。

その震えは、頬に触れた風の中にも、背中を撫でた日差しの中にも、まるで生きもののように宿っていた。

 

しぶきが弧を描くたび、空に夏の音が鳴る。

それは人の耳には聞こえない、季節だけが知る音。

潜るたび、少女たちの身体からひとしずくずつ、夏がこぼれてゆく。

 

そこには境界がない。

空と海と、ひとの姿が溶け合い、ただ、ひとつの風景となって、目の奥に焼きついていく。

 

手のひらに握った小石は、かすかに湿っていた。

砂のついた指先をこすり合わせると、その感触が、どこか遠い記憶を呼び起こすようだった。

熱を帯びたままの石を、祠の傍らにそっと置く。

それは、祈りではなく、ただの記録のようで、しかしその静けさが、確かに何かを結びとめていた。

 

少女たちが戻ってきたのは、それからしばらく経ったころだった。

髪に小さな貝を編み込んで、濡れた肌に陽がまた新しい影を描いていた。

その手に持たれていたのは、小さな水の器。

内に宿る光が、たしかに脈打っていた。

 

砂の上に描かれた文様が、風に消されていく。

けれど、その一瞬の美しさが、むしろ深く心に残った。

永遠ではないからこそ、美しいものがある。

残らないからこそ、記憶に刻まれるものがある。

 

もう一度、あの断崖の道を辿る。

来たときよりも、少しだけ影が長い。

岩の割れ目から、名も知らぬ草の白い花がのぞいている。

その花びらのひとつが、風に乗って宙を舞い、やがて誰の手にも触れられず、海へと落ちていった。

 

目を閉じると、潮騒が胸の奥にふくらむ。

遠くで少女たちの舞う気配が、まだ風のどこかに、微かに残っていた。

 

この夏は、もう戻らない。

けれど、胸の奥にあの石の重みを知ってしまったから、この道は、どこまでも続いていくのだろう。

 

歩くたびに、足元の石が音を立てる。

そのひとつひとつが、いつか誰かの祈りだったのかもしれない。

そう思うたび、風景の輪郭が少しだけ柔らかくなる。

 

夏の名残が、背中をそっと押していた。

真昼の空の下で、すべての影が、やさしく溶けていった。




帰り道、影が長くのびていた。
振り返っても、波の音だけが同じ場所に在り続ける。
誰も名を呼ばず、誰の名も残さず、けれどたしかに、心の片隅にひとつの光が置かれていた。

あの白い布が風にはためくとき、遠く離れても、胸の奥でその音が揺れる気がする。

夏の深いところで交わされた静かな約束は、今も波の底で、静かに息をしている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。