泡沫紀行   作:みどりのかけら

214 / 1189
春の光がわずかに濁るころ、石の町を歩いた。
昼の空は澄みきっていたが、その底にはゆるやかな熱が潜んでいた。
響きわたる音と、燃えるものの気配と、古くから受け継がれた静かな祈り。

歩みの途中、風の揺らぎのなかに、確かに何かがあった。


0214 炎と太鼓の命の舞

石畳に濡れた陽が跳ね、やわらかな春の気配が足元から這い上がる。

うすく霞む空は、遠くの山の肩をくぐり抜ける風の匂いを運び、鼻腔の奥にほのかな火の粉の痕を残す。

 

ひと筋、ふた筋、細い小道の奥から太鼓の音が湧きあがる。

地の底を叩くような低さで始まり、やがて樹々の梢にぶつかって、揺れるように枝を揺すってゆく。

音は目に見えない火の波のように町を満たし、軒先の瓦にまで小さな震えを与える。

 

陽の光は、乾ききらぬ石壁の皺に触れて、しずくのようにじんわりと染みこんでいく。

軒下の影にはまだ冬の残り香が息づいていたが、その隙間にも、春の火が指を滑らせてゆく。

 

人の姿が見えたのは、赤く染められた布の先だった。

衣のすそが風に揺れ、鮮やかな色が揺れるたび、空気が波立つ。

歩を進めるたびに鳴る鈴の音が、太鼓の底音に溶けて消える。

顔は布に包まれ、声も知らぬ。

だが、その歩みはまるでひとつの言葉のように、石の上に祈りを刻んでいた。

 

胸の奥に、何か柔らかいものが落ちる感覚。

ことばにはならない。

それはただ、空気に溶け、音に消え、光に包まれたまま、静かに形を変えていく。

 

ひとつの広場に出る。

そこでは火が、まだ生きていた。

 

火といっても、燃えさかる炎ではない。

木と紙と布とが織りなす、大きな舟のようなものが、幾重にも重なった人々の腕の中で、ふわりと揺れている。

そのてっぺんに灯された小さな火が、風に揺られて、青く、赤く、微かに舞う。

太鼓の音が近くで鳴り、心臓と同じ速度で胸に響く。

 

身体の奥底がふるえる。

頭ではない。肌でもない。

もっと深い、忘れていた何かの根っこが、揺り動かされる。

 

大地を叩く音。

火を抱く腕。祈りのような舞。すべてがひとつのうねりとなって、空へと昇ってゆく。

空はうっすらと青みがかり、雲はその中心で、ゆっくりと渦を巻くようにしてほどけてゆく。

 

とつぜん、風が走った。

 

それは呼吸のようでもあり、何かが目覚める瞬間のようでもあった。

火の揺らめきが一瞬だけ鋭くなり、踊る影の輪郭が、石畳にくっきりと焼きついた。

布がめくれ、目があった気がした。

それは光のいたずらか、それともほんとうに誰かがこちらを見たのか、わからなかった。

 

しかし、胸の鼓動は確かに強くなり、地面の上の足はもう、冷たくなかった。

 

太鼓の音が遠のくたびに、耳の奥に残る余韻が静寂を際立たせる。

まるで音が去ってからこそ、音の正体が知れるかのように。

肩にかかった陽は次第に柔らかくなり、光の斜面が石畳をゆっくりと這っていく。

 

火を背に、広場を離れる。

だが、胸の中には火が残ったままだ。燃えさかることもなく、消えることもなく、ただ、ゆっくりと息をするように。

 

しずかに、深く、心のどこかを照らしている。

 

細い路地の先、音の名残を辿るように歩を進める。

誰の名も知らぬ町の、誰の家とも知れぬ軒下に、春の午後がゆっくりと沈みこんでいた。

軒先の垂れ布が風に揺れ、濡れた木の香りが鼻をかすめる。

太鼓の鼓動は遠ざかったはずなのに、石畳にひそむ熱は消えず、足の裏にじんわりと沁みこんでくる。

 

ここにあるものは、どれもすべて、何かの記憶のように感じられた。

たとえば、土の匂い。乾いた木の柱に残る手の跡。

小さな祠の前に添えられた名もなき草花。

誰のものとも知れぬ祈りが、この町の隅々に染みついていた。

 

ひとつ、息を吸う。

陽の匂いと、火の気配と、湿った草の香りとが、胸の奥に沈んでいく。

空は静かに、ゆっくりと色を変えはじめていた。

光がまどろむように降り注ぎ、空気そのものが透明な水のように満ちていく。

 

歩くごとに、風景がやわらかく、そして確かに移ろっていく。

季節の輪郭が、指先に触れるような気がした。

 

古びた石段の途中、ひとつの太鼓が壁際に置かれていた。

打ち捨てられたようにも見えるが、近づくと、まだ温もりが残っていた。

誰かがここで手を打ち、火を宿し、そして去ったのだろう。

太鼓の皮には、うっすらと掌の形が浮かんでいた。

 

そのそばに、黒く焦げた布きれがひとつ。

風に吹かれて、ささやかな音を立てる。

拾い上げると、細かい繊維に舞いの名残が残っていた。

空気に馴染んだ香と、遠い音の粒が、そこに溶けていた。

 

それを見つめる時間は、ほんの瞬きのようだったかもしれない。

しかしその間に、心のどこかで微かな音が鳴った。

言葉にすれば途端に壊れてしまうような、小さな変化だった。

 

火とは何か。

祈りとは何か。

誰かの命がここで燃え、その残り火を、見知らぬ足が拾い上げていく。

 

陽はますます傾き、町の影は長く伸びる。

その影のなかにも、太鼓の鼓動があった。

音はもう聞こえないのに、鼓動だけが身体に残る。

光があるかぎり、影がついてくるように。

 

ひとつ、目を閉じる。

まぶたの裏に浮かぶのは、燃える舟の舞。

風に揺られながら、命のように小刻みに震え、そして空へと溶けていった小さな炎。

あの火はもう、どこにもない。

それでも、その光の残像だけは、たしかにこの胸に焼きついていた。

 

やがて、風がまた通り過ぎる。

 

今度の風はやわらかく、春のあいさつのように頬を撫でた。

太鼓の残り音も、火のぬくもりも、風にゆだねて遠くへと旅立っていく。

自分の歩みもまた、それに続くようにして、次の角を曲がる。

 

石に刻まれた祈りは、声ではなく、かすかな温度で語る。

足元の土に染みる音、舞いあがる火の影、そして誰かの手のひらが伝えた熱。

それらすべてが、目に見えないまま、確かにそこに在った。

 

歩けば歩くほど、音が遠ざかるのではなく、むしろ身体に染み入ってくるようだった。

 

それはもはや、耳で聴くものではなかった。

 

それは、胸の奥で鼓動する、もうひとつの命のようだった。




足もとの石に残るわずかな熱が、まだ消えずにいた。
太鼓の音も、火のゆらめきも、すでに遠く去ったはずなのに、心のどこかではくすぶるように息づいている。

名もかたちも知らぬまま、その景色は、深く静かに染み込んでいた。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。