泡沫紀行   作:みどりのかけら

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春が始まる音は、雪解けの水音よりも静かだった。
それは、誰にも知られず咲く一輪の花が、石の奥に根を張ったときに生まれる。

歩きながら、風の匂いに耳を澄ませると、いつしか季節の境界が遠のいていた。
何も語らず、何も求めず、ただそこにあるものに触れることで、見えてくる風景がある。


0216 岩の夢に咲いたひとひら

白い息が揺れ、朝の光に消えた。

山のふところに沈むような道を、ひと足ごと、霜を踏む音が薄れていく。

土はまだ眠っている。けれど、どこかに確かに、春の種がほころんでいた。

 

背を丸めて低木を縫い、岩肌に寄り添うように歩く。

風がひとすじ、髪をすべり、すぐに静けさの帳へと還ってゆく。

鳥の声もまだない。朝のひかりが冷たい岩を撫でている。

湿った苔が、あたたかい。

 

遠くに、ひとつ、輪郭がちがうものがあった。

灰青の石に深く割れ目が走り、その亀裂から、花が咲いていた。

かたく閉じた岩の胸を裂くようにして、淡い色の枝が空を求めている。

白とも、桃ともつかぬその色は、夜を超えて目覚めたばかりの夢のようだった。

 

そっと近づいていくと、足元に敷かれた落葉がわずかに鳴った。

水気を含んだ葉の上で、靴裏が沈み、やわらかな抵抗を返してくる。

ひとつ、またひとつと歩を重ねるごとに、花の香りが濃くなる。

 

石はひび割れていた。

けれど、そのひびの奥からは、命の音が聴こえた。

かすかに、木の芯を通って昇る水の気配。

まだ開ききらぬ蕾が、陽を求めて震えている。

 

掌をそっと岩の面に触れた。

冷たさではなく、深い眠りのような感触。

何百年も何千年も、動かぬまま、空と対話してきたような静けさがあった。

 

裂け目に這う枝のひとつに、小さな雫が宿っていた。

夜露か、溶け残った霜か。

光が差し込むたびに、雫はわずかに揺れ、花びらの先端を濡らしていた。

 

春は、岩を裂いてまで、ここに根を張ったのだ。

風も水も拒むようなこの場所に、ただひとひらの花を咲かせるためだけに。

その意思のようなものに、どこかで心が微かに震えた。

 

ふと、背後に木々がそよぎ、日差しが角度を変えた。

朝が少しずつ、昼の顔を見せ始めている。

 

見上げれば、空が淡く揺れていた。

雲は遠く、風は止み、花は枝先で静かにひらいていた。

その咲きぶりは、何も望まず、何も拒まず、ただ、そこにあるという姿だった。

 

やわらかく湿った空気が頬に触れ、吐息がひとつ、光にとけた。

立ち尽くすうちに、音も、時間も、すべてが岩のなかに吸い込まれていくようだった。

 

裂け目に根を張ったその木が、どれほどの季節を超えてここに立っているのかは分からなかった。

けれど、いくつもの冬と春がこの岩に重なり、そして剥がれていったことだけは、風の流れが知っていた。

 

その木は叫ばない。誇らない。

ただ、石の夢を借りて、ひとつの花を咲かせている。

誰に見られなくてもいいというように。

誰かを待っているようでもあった。

 

足元に影が滲んだ。

陽が射してきたのだ。

岩の表面に残る露が、光を抱いてゆっくりと蒸気に変わる。

まるで岩自身が、花に言葉を渡すように。

 

そばに落ちていた小さな石を拾い、掌に乗せた。

かすかにざらついた感触。

ひんやりとしていたが、じっと持っていると熱が移ってくる。

どこか懐かしさのようなものが胸の奥でふくらんだ。

それは記憶ではなく、もっと遠い、言葉になる前の感情だった。

 

風がゆるやかに戻ってきた。

花の枝を揺らすその音は、誰かの寝息のように静かで、温かかった。

ひとつ、花びらが落ちた。

ゆっくりと、揺れながら。

重力を忘れたような、夢のなかの動きだった。

 

それは岩の裂け目の縁をかすめ、苔の上に降りた。

白と桃のあいまいなその色が、濃緑の上でいっそう淡く見えた。

 

花びらは、しばらくそこに留まっていたが、次の風でまた舞い上がった。

どこかへ運ばれていく。

どこまでも、静かに。

 

土の匂い、芽吹く木の気配、凍てついた石の呼吸、

すべてがここでは一枚の景色のように重なっていた。

 

空はさらに青さを深め、影の輪郭も濃くなっていた。

岩の中からはもうひとつの命が芽を出し、

陽を仰ぎながら、まだ花には至らぬつぼみを抱いていた。

 

春は、待つもののためにあるのかもしれない。

石の眠りを越えて、やがて花となるその気配を抱いて、

誰にも知られぬ場所で、ただ、待ち続けているもののために。

 

息を吸う。

土と苔と、微かに花の甘い香りが、胸の奥に届く。

そしてその香りのあとに、まだ見ぬ花の気配が残る。

 

ゆっくりと、歩き出した。

もう何も語るものはなく、風も背を押さず、道はただ、続いていた。

花は背中で揺れている気がした。

見なくてもわかる。

その存在が、岩に刻まれたまま、そこに在り続けることを。

 

歩いていく先にも、きっとまた、石の中に夢を見る何かがあるだろう。

名もなく、声もなく、ただひとひらの花として、春を知っている何かが。

 

足もとの影がのび、また風が、枝を揺らした。

背を向けた岩の裂け目から、もういちど花の香りがふり返った気がした。

振り向かずに、それでも、確かに感じていた。

 

音のない祈りが、そこにあった。

 

沈黙と、花と、石の夢のあいだに。




裂けた岩の間から咲いた花の色は、思い出すたびに少しずつ変わっていく。
白だったか、桃だったか、それともそのあいだの夢のような色だったか。
あの静けさのなかで、花が風に揺れるたび、心の奥の、言葉にならない部分がそっと動いた。

春は過ぎてゆくものではなく、あの岩のように、いつまでもそこにとどまっているのかもしれない。
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