泡沫紀行   作:みどりのかけら

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午後の光がもっとも深く降りる頃、湿った風は緑の帳を静かに揺らしていた。
ひとときの影に身を置くことでしか辿り着けない、息づく気配がある。

苔のしずく、草の律動、石の黙語。
それらは名を持たず、ただその場に在ることで、何かを語ろうとしている。

足をとめ、耳を澄ますとき、見えてくるものがある。


0217 緑の帳が包む夏の鼓動

指の先から落ちてゆく光が、葉の隙間で砕けていた。

濃く蒸された夏の匂いは、土に染み、苔に吸われ、しんとした輪郭をもって肌に触れてくる。

肩を撫でる風は柔らかく、けれど確かに重い。

緑は満ちていた。飽和し、滴るほどに。

 

かすかに傾きかけた陽が、地に刺さる岩の縁を金に縁取り、そこにだけ別の時の粒が降り積もっているようだった。

足元を踏むたび、土が音もなく沈み、草が伏しては戻る。

陽を浴びた草の葉が、風のたびに微かに軋んで鳴いた。

 

いくつもの小径が、斜面を縫うように折れ曲がりながら伸びていた。

人の歩幅にすり減ったその道には、言葉よりも古い記憶が染みこんでいた。

木々の根が浮かび上がり、幾度となく過ぎてきた時の層をなぞるように伸びていた。

 

水音がどこからか響いてくる。

見えない流れが、地の奥底から心音のように脈を打っていた。

ひとところに立ち止まると、風と蝉と水が、三つの調べとなって耳を満たした。

ああ、これはきっと、森そのものの鼓動。

 

長い旅のあいだに、幾度となく見上げてきた空は、今日は重たく、低く、やわらかな水色をしていた。

雲は少しだけ遅れて動き、空の底をなぞるようにして流れていく。

光の温度は高く、けれど鋭さはなく、肌の上でじっと呼吸をしていた。

 

腰を下ろす岩の冷たさが、汗ばんだ背に心地よかった。

腰の脇で揺れる水袋の重さに手を触れると、皮の表面がかすかに軋んだ。

吸い込んだ息のなかに、乾いた松の皮の香りと、陽を吸い込んだ草の香りが混じっていた。

 

時折、枝先から何かが降る。

枯れ葉でない、花でもない、小さな緑のかけら。

指先で受け止めると、あっという間に風にさらわれて消えていった。

 

斜面を降りると、そこは一面の草の広がりだった。

誰の名も知らない花が、淡く、力強く咲いていた。

草の背丈は膝を越え、歩くたびに衣の裾が濡れる。

水気を帯びた大地は、真昼の熱をはらみながらも、なお深く冷えていた。

 

遠くに、草を押し分けてゆく黒い影があった。

獣か、鳥か、あるいは風の癖か。

それが何であれ、名をつける必要はなかった。

ただ、そこにあることが美しかった。

 

身体の奥で、なにかがゆっくりと静まっていく。

暑さではない。

疲れでもない。

思いのようで、思いでないもの。

それは言葉を持たず、けれど確かに、心のなかの深い水面に小さく波紋を描いていた。

 

それをそっと抱えたまま、背を向けずに、ただしばらく、草の海を見ていた。

 

草の海を抜けると、ふいに風の向きが変わった。

木々のざわめきが反転し、まるで森がこちらへ息を吹き返したようだった。

空の光は濃さを増し、輪郭のないまま影を落としていく。

緑の奥深くに立っているのに、どこかひらけた場所へ近づいている気がした。

 

風に押されるようにして一歩ずつ歩を進めると、湿った地面の感触が次第に乾き、土はしだいに柔らかさを失っていった。

どこかで薪を割る音がしたような気がしたが、風の音と重なり合って、すぐに消えた。

その気配が残したのは、なぜか懐かしいような、まだ知らぬ遠い記憶の匂いだった。

 

やがて、木々の切れ目に、石の平たい面が現れた。

人の手が加わったものではない。

けれど自然のままというには、あまりに静かで、あまりに整いすぎていた。

石の上には、乾いた草の種子や、羽をたたんだ虫たちが乗っていた。

そのどれもが、壊れそうなほど静かに、けれど確かに「そこにある」ことを主張していた。

 

石に触れると、体温を吸われた指先がじんわりと痛む。

その冷たさの中に、何か古いものの名残のようなものが潜んでいた。

誰かがここに座り、何かを祈ったことがあるのかもしれない。

あるいは、それすらも想像の一部でしかなく、すべてはただ、時と光が作った幻だったのかもしれない。

 

それでも、腰を下ろすと、地とひとつになったような静けさが胸に満ちていった。

遠くで鳴く鳥の声が、鼓膜の裏に残響のようにとどまる。

ひとつの風が過ぎるたび、葉が、草が、影が、小さく震えた。

それはまるで、見えない誰かが森の中をそっと通り過ぎたかのようだった。

 

空を見上げると、雲の切れ間からこぼれる陽が、一本の樹の枝先だけを照らしていた。

まるでその木だけが、いまこの瞬間だけ別の時を生きているようだった。

光に透けた葉脈が、細かな血管のように輝いていた。

その細さ、その脆さの中に、何かとても大きなものが宿っているように見えた。

 

夏は、音を連れてやってくる。

虫の声、葉の触れ合う音、水の揺れる音。

そのすべてが、ひとつの鼓動となって、この地の奥底から立ち上がっていた。

その音に包まれていると、時間がすこし、ゆるむ。

呼吸が深くなり、思考の輪郭がとろけていく。

 

今、ここにあるものだけがすべてで、

今、ここにないものは、始めから存在していなかったのだと思えるほどに。

 

遠くで雷鳴のような低い響きが一度だけ鳴った。

すぐに空は沈黙し、また風だけが森を満たした。

その音は、過ぎた季節の残響か、それともこれから訪れる夜の前触れか。

 

立ち上がると、身体の節々が湿った風と共鳴するように重く、やわらかく伸びた。

歩き出す足元には、乾いた葉がひとひら舞い降りた。

まだ夏は終わっていないのに、その葉だけが、時を先に歩いていた。

 

その小さな季節の予感を、胸の奥にそっとしまい、また、緑の帳の中へと歩を進めた。




すべての音が遠のき、風の匂いだけが残った。
光は褪せ、影は伸び、やがて色さえも静かに沈んでいく。
何も変わらないまま、確かに何かが過ぎていった。

それは石に刻まれた祈りのように、声にはならず、それでも確かに胸の奥で脈を打っていた。
もう、歩いて行ける。
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