泡沫紀行   作:みどりのかけら

218 / 1180
海から吹く風は、季節の輪郭をぼかしていた。
かつて誰かが歩いた道には、今もひそやかな音が宿っている。

静かな時間のなかで、耳を澄ませば、土地に根ざす鼓動がやわらかく聴こえてくる。
その場所で、息づいていたものたちの気配とともに、そっと、頁をめくる。


0218 波間の調べに踊る恵み

海鳴りの彼方で、風がかすかに笑った。

光の糸がゆらぎながら、水面を縫っていた。

遠くから届く、波のさざめきが、ひとひらの祈りのように胸の奥を撫でてゆく。

 

足元には、湿った小石が並んでいた。

ひとつひとつ、指先でなぞれば、かすかな熱が残る。

陽にあたって、あたためられ、夜にはまた潮に冷やされる――

そんな記憶が、小石の肌に宿っているようだった。

 

道は、しずかにうねっていた。

陸と海とのあわいに、まるで誰かが眠るために敷いた寝床のような、柔らかな傾斜が続いていた。

海藻が干されていた。

長く、濡れた髪のように、風に舞っていた。

その香りが鼻先をかすめたとき、かすかに胸の奥がゆるんだ。

遠い昔、指の隙間からこぼれ落ちた思い出が、潮のかおりと一緒に甦る。

 

しずかに吹く風が、袖の中に忍び込み、腕を撫でる。

衣の繊維をくぐり、肌へと触れ、そこにある体温を確かめるように通り抜けていった。

風の音と、波の音が重なり、どこからともなく聴こえる調べとなる。

それは音楽というよりも、気配だった。

眠っていた何かが目を覚ます、そんな気配。

 

地面から伸びた棚のような木組みに、貝が吊されていた。

小さな舟のような形をした貝が、乾いた風に揺れていた。

その一つひとつに、無数の傷が走っている。

けれど、それは痛みではなく、風を受け止めるための模様のようだった。

風のなかで擦れ合う音が、小さく響く。

誰にも聴こえぬような微かな音。

それでも、その音は、胸の底にまっすぐ降りてきた。

 

土にしゃがみこみ、ひとつの貝殻に触れる。

冷たいが、どこか柔らかい。

ひとつの命が、そこに住んでいた証。

今はもう、空になって、風と波に溶けようとしている。

 

その隣に、誰かが並べたのだろう、黒いひも状のものが桶に入っていた。

陽を浴びて、ぬるりとした光を放っている。

それに手を伸ばす。

冷たい。けれど、指先に絡みつくその感触は、どこか生きていた。

唇に触れてみれば、海の香りとともに、やさしい苦味が舌に広がる。

それは、どこか懐かしい味だった。

 

石を敷き詰めた小道の先に、湯気がゆらいでいた。

その温もりに導かれるように歩を進める。

近づくにつれ、湯の立つ音と、なにかが炙られる香ばしさが空気に混じってゆく。

細い草のようなものが、炭の上でじりじりと音を立てる。

その隣に置かれた、白く柔らかそうなものが、網の上でわずかに震えていた。

 

小さな器に、琥珀の汁が湛えられている。

そのなかに、草のようなものと、白いものをそっとくぐらせる。

しゃぶ、しゃぶ。

音はしない。ただ、湯の波がやさしく揺れて、すべてを包んでいく。

 

口に含むと、わずかな甘さと、ふくよかな旨味がほどけた。

それは潮の音に似ていた。

ひとくちごとに、胸の奥の風景が、あたたかくほどけてゆく。

体の奥で、静かに何かが満たされていく感覚。

言葉にならない満足が、喉から胸へと、ゆっくり沈んでいく。

 

湯の器に、雫が落ちた。

それが海なのか、汗なのか、記憶なのかはわからなかった。

 

雫は、湯の波紋にのって、そっと消えた。

 

土の匂いが、湯気の隙間から立ちのぼる。

潮と炭と、わずかな草の香りが混ざり合い、目を閉じれば、呼吸の奥まで届いた。

その深さは、あたかも胸の内に眠っていた風景を呼び覚ますようで、過ぎた日々の断片が、水の波紋のように静かに広がっていった。

 

頬にあたる風が、かすかに冷たかった。

それでも、腹の底には、しっかりと温もりが根を張っていた。

食むことは、旅の中で忘れがちな「確かさ」だった。

歩き続ける足元が、やがて辿り着いた土地の、めぐみ。

それを口にするたびに、見えないものが、胸の奥に灯される。

 

炙られた白きものは、ひとたび湯にくぐると、まるで波間に舞う蝶のようにしなやかに変わった。

その柔らかな身を、噛む。

繊維の一筋一筋が、舌の上でほどけながら、海の鼓動を伝えてくる。

あたたかく、まろやかで、ひとしずくの塩が、かえって甘味を引き立てる。

この世のものとは思えぬやさしさが、喉を過ぎた。

 

となりに置かれた器には、淡い緑の葉が沈んでいた。

湯のなかで揺れているその姿は、まるで春を忘れた森のなかで目覚めを待つ若葉のよう。

それもまた、口にすれば、海と陸との狭間を生きた時間の味がした。

渋みと旨味が重なりあい、どこか切ないような、ふしぎな深さがあった。

 

器を持つ手のひらが、湯の熱に染まっている。

もうしばらくすれば、この温もりも、肌から消えていくのだろう。

けれど、消えることと、なくなることは、同じではない。

身体の奥に宿った温もりは、声を上げずに、しずかに歩みを支える。

まるで、かつて祈りの場で灯された火が、いまも石の奥に生きているかのように。

 

空は、いつの間にか柔らかな朱に染まりつつあった。

日は傾き、すべての色に金の粉を振りまいていた。

小さな棚に吊された貝殻が、夕光を受けてひかり、そのひかりが、誰のものとも知れぬ影を、地面にゆらゆらと落としていた。

 

ひとつの命が育まれ、海で揺れ、風に晒され、火で炙られ、そして、いま、わたしの身体に融けていく。

 

歩き続けるということは、どこかで誰かの営みと触れ、見えない祈りに触れて、また歩き出すということ。

 

残された湯の器からは、すでに湯気も絶えていた。

けれど、その水面には、わずかに揺らぎが残っていた。

風が、あの日の音を、再び連れてくる。

 

それは波の調べだった。

炙られた貝と、若葉の香が、音もなく胸に戻ってくる。

今しがた味わったものの気配が、風とともに遠ざかり、それでも、確かに残った。

 

名もなく、地図にも記されず、ただその場所で、生き、育ち、与えられたもの。

 

ひとしずくの湯のように、掌のひらからこぼれ落ちる前に、

そっと目を閉じる。

 

まぶたの裏に、夕映えの金色のひかりと、湯気のような祈りが、静かにたゆたっていた。




風が、すべてをなぞるように、あとを引いて吹き抜けていった。
残されたのは、あたたかな余韻と、いくつかの淡い色。

ひとは何も持たずに歩いてきて、わずかな香りや、かすかな音だけを、胸の奥にしまっていく。
それだけで、きっと十分だったのだと思う。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。