泡沫紀行   作:みどりのかけら

22 / 1179
その地に足を踏み入れた瞬間、
時間が肌の上を流れ落ちていくようだった。

静かに、何も言わず、
ただしんと包み込むように、

風も光も、

記憶の奥から来たかのようだった。


0022 静寂なる海

草を踏むたび、靴の裏に水の気配がじんわりと伝う。

草原とも言えず、沼とも呼べず、名を持たぬまま広がるこの土地は、まるで眠っている獣の背のように、どこまでも緩やかにうねっていた。

 

遠くに見えるのは、空とも湖ともつかぬ、濁りなき白。

その白は霧であり、波であり、やがて私のまぶたの内側にも、そっと染み込んでくる。

 

静かだった。

 

草の背丈がちょうど膝を隠すほどに伸び、ところどころに見える水面は、雲のかけらを貼りつけた鏡のように震えもせず横たわる。

風が吹くたび、白い綿毛が空へ舞い上がり、地と空との境目を曖昧にした。

 

私はしばらく、その曖昧さの中に立ち尽くしていた。

 

そこに色はほとんどなかった。

緑といっても、冷たく湿った灰色に近く、霧の向こうにある陽光は、濾された銀のように鈍い。

けれどその鈍さが、この場所にはふさわしかった。

 

ただ、一羽。

 

高く高く、空を割るように飛ぶ影があった。

その形は、まるで空にひびが入ったかのようで、その後に残ったのは、羽音でも叫びでもなく、ただの静寂だった。

 

その静寂が、湖を、湿原を、空を、私の内側までも満たしていった。

 

やがて足元に、小さな小さな花が咲いているのを見つけた。

白とも青ともつかぬ、ほとんど色を持たぬその花は、わずかな湿り気を頼りに咲いているようだった。

ひどく儚く見えたのに、その根は深く、しっかりと地をつかんでいた。

 

一歩、また一歩と進むごとに、世界は音を失っていった。

 

遠くの水鳥たちは、翼をたたんで眠るように佇み、風のさざめきすら、どこか遠慮がちだった。

ここでは、全てが何かを待っているように見えた。

けれどその「何か」は決して訪れず、だからこそ、この静けさが保たれているのだと、私は思った。

 

小さな岬のようにせり出した地に立ち、足元を見下ろすと、そこには湖があった。

ただの湖ではなかった。

空を抱いた湖であり、霧を呑み込んだ海であり、時間さえも静かに沈めるような深さを持っていた。

 

水面には影が浮かんでいた。

 

私の影ではない。

もっと前にここを通った誰かの、気配だけが残した影かもしれない。

それはゆらりと揺れては消え、また形を変えて現れ、けれど決して湖を離れようとはしなかった。

 

私はしばらく、その影と向き合っていた。

語らず、動かず、ただ共にそこにいた。

 

気がつけば、霧が濃くなっていた。

草も、水も、空も、すべてがひとつの白の中に吸い込まれていく。

 

この白は、何も隠さない。

むしろ、すべてを見せているのかもしれなかった。

人の歩みがどれほどかすかなものであっても、それはこの白に包まれ、記憶となって沈んでゆくのだ。

 

耳を澄ませば、水の底からくぐもった音がする。

鼓動のようでもあり、誰かの足音のようでもある。

 

それは、もうここにいない誰かの、確かにここを歩いた証なのだろう。

 

私はその音を背に受けながら、再び歩き出した。

草は柔らかく、湿った風が衣を揺らす。

 

すれ違うものは何もなかった。

ただ、霧の向こうにある世界だけが、こちらを見つめているようだった。

 

やがて水音が遠ざかり、足元にしっかりとした草の感触が戻ってきた。

それでもなお、背後には、あの湖が、あの白が、あの静寂が、静かに横たわっていた。

 

忘れることはないだろう。

あの影。

あの音。

あの、何もないのに、すべてが在った場所のことを。

 




人は語らぬ静けさに、
真実を見出すことがある。

霧に包まれたこの地は、確かに私の中に何かを刻んでいった。

それが名もなき記憶だとしても、

私はその白を、永遠と呼びたい。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。