時間が肌の上を流れ落ちていくようだった。
静かに、何も言わず、
ただしんと包み込むように、
風も光も、
記憶の奥から来たかのようだった。
草を踏むたび、靴の裏に水の気配がじんわりと伝う。
草原とも言えず、沼とも呼べず、名を持たぬまま広がるこの土地は、まるで眠っている獣の背のように、どこまでも緩やかにうねっていた。
遠くに見えるのは、空とも湖ともつかぬ、濁りなき白。
その白は霧であり、波であり、やがて私のまぶたの内側にも、そっと染み込んでくる。
静かだった。
草の背丈がちょうど膝を隠すほどに伸び、ところどころに見える水面は、雲のかけらを貼りつけた鏡のように震えもせず横たわる。
風が吹くたび、白い綿毛が空へ舞い上がり、地と空との境目を曖昧にした。
私はしばらく、その曖昧さの中に立ち尽くしていた。
そこに色はほとんどなかった。
緑といっても、冷たく湿った灰色に近く、霧の向こうにある陽光は、濾された銀のように鈍い。
けれどその鈍さが、この場所にはふさわしかった。
ただ、一羽。
高く高く、空を割るように飛ぶ影があった。
その形は、まるで空にひびが入ったかのようで、その後に残ったのは、羽音でも叫びでもなく、ただの静寂だった。
その静寂が、湖を、湿原を、空を、私の内側までも満たしていった。
やがて足元に、小さな小さな花が咲いているのを見つけた。
白とも青ともつかぬ、ほとんど色を持たぬその花は、わずかな湿り気を頼りに咲いているようだった。
ひどく儚く見えたのに、その根は深く、しっかりと地をつかんでいた。
一歩、また一歩と進むごとに、世界は音を失っていった。
遠くの水鳥たちは、翼をたたんで眠るように佇み、風のさざめきすら、どこか遠慮がちだった。
ここでは、全てが何かを待っているように見えた。
けれどその「何か」は決して訪れず、だからこそ、この静けさが保たれているのだと、私は思った。
小さな岬のようにせり出した地に立ち、足元を見下ろすと、そこには湖があった。
ただの湖ではなかった。
空を抱いた湖であり、霧を呑み込んだ海であり、時間さえも静かに沈めるような深さを持っていた。
水面には影が浮かんでいた。
私の影ではない。
もっと前にここを通った誰かの、気配だけが残した影かもしれない。
それはゆらりと揺れては消え、また形を変えて現れ、けれど決して湖を離れようとはしなかった。
私はしばらく、その影と向き合っていた。
語らず、動かず、ただ共にそこにいた。
気がつけば、霧が濃くなっていた。
草も、水も、空も、すべてがひとつの白の中に吸い込まれていく。
この白は、何も隠さない。
むしろ、すべてを見せているのかもしれなかった。
人の歩みがどれほどかすかなものであっても、それはこの白に包まれ、記憶となって沈んでゆくのだ。
耳を澄ませば、水の底からくぐもった音がする。
鼓動のようでもあり、誰かの足音のようでもある。
それは、もうここにいない誰かの、確かにここを歩いた証なのだろう。
私はその音を背に受けながら、再び歩き出した。
草は柔らかく、湿った風が衣を揺らす。
すれ違うものは何もなかった。
ただ、霧の向こうにある世界だけが、こちらを見つめているようだった。
やがて水音が遠ざかり、足元にしっかりとした草の感触が戻ってきた。
それでもなお、背後には、あの湖が、あの白が、あの静寂が、静かに横たわっていた。
忘れることはないだろう。
あの影。
あの音。
あの、何もないのに、すべてが在った場所のことを。
人は語らぬ静けさに、
真実を見出すことがある。
霧に包まれたこの地は、確かに私の中に何かを刻んでいった。
それが名もなき記憶だとしても、
私はその白を、永遠と呼びたい。