泡沫紀行   作:みどりのかけら

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藤の香は、春の光とともに、土の奥に眠る声を呼び覚ます。
花が舞い、音が消えるとき、見えなかったものが輪郭を持ち始める。
風はどこからともなく吹き寄せ、石の記憶をそっと撫でてゆく。

その場所には、まだ誰の足跡もついていない。
ただ、ひとひらの花が落ちる音だけが、静かに響いていた。


0220 古の声、花霞の宴

風が、花を連れていた。

 

山の端にうっすらと白んだ春の光は、眠りから目覚めた土をやさしく撫で、ひと冬分の沈黙を解いてゆく。

足元には薄紫の影が揺れていた。

踏みしめるたび、土はやわらかく沈み、そこに咲きこぼれるものたちの香りが、呼吸の中に忍び込んでくる。

 

藤は、まだ若い春の空気をそのまま降らせていた。

風が吹くたびに、長く伸びた房が、音もなく揺れる。

濃淡をまじえた藤の花は、空と地のあいだを結ぶように枝から垂れ下がり、光の幕となって一歩ごとに景色を変えていく。

 

苔むした石の階が、斜めに差し込む光を裂いていた。

ひとつひとつの石は、かつて誰かが手をかけて積み重ねたもの。

指先でなぞると、乾いた感触の下に、しっとりとした冷たさが潜んでいる。

朝露を吸ったその石たちは、まるで何かを語りかけるように黙っていた。

 

かすかな太鼓の音が、風にのって遠くから聞こえてくる。

近づくにつれ、笛の音が重なり、草木の間から浮かぶような色彩が見えてきた。

山裾の静けさとはうらはらに、人の気配がゆっくりと広がってゆく。

 

霞のような薄布をまとった人々が、花の下で舞っていた。

音は静かに、けれど確かに、土の深くへと染み入っていく。

舞う者たちの影は、ひらひらと花弁と交わり、いつのまにかその輪郭すらあいまいになっていた。

誰がひとで、誰が花で、誰が音であるのか——その境はとっくに溶けていた。

 

袖が風を孕み、砂をかすめて舞い上がると、乾いた地に淡い円がひとつ、残される。

その形は一瞬で消えるが、まなざしの奥には、永く残る痕となって焼きつく。

 

香は、緩やかに降り積もるようだった。

焚かれた香木のにおいが、木々の合間をゆっくりと這いながら、身体の隙間からすこしずつ染みこんでくる。

肺の奥に届いたその気配は、懐かしさとも哀しさともつかない感情をぼんやりと浮かび上がらせた。

 

花を踏みしめる音がした。

 

それは自らの音だった。

けれど、どこか遠くの誰かが、同じ道を歩いたときに鳴らした音でもあるように思えた。

足音は、過去と現在をつなぐ細い橋のように感じられ、ひとつひとつの響きが、確かにこの地に在った声を呼び起こしていく。

 

石碑があった。

 

陽に透ける木漏れ日が、その輪郭を斜めに照らしていた。

削られた文字は風化し、そのほとんどは読めなくなっていたが、指でなぞると、わずかな彫りの深さが感じられた。

そこに記されたものはもう言葉ではなかった。

ただ、祈りだけが残っていた。

 

風が、藤の花を吹き上げるようにして通りすぎていく。

目を上げると、天から地へ降るようにして花が散っていた。

 

花霞の下、声なき声がゆっくりと立ち上がる。

それは歌ではなかった。

けれど、耳を澄ませば、確かにそこにあった。

 

続く道の先、まだ見ぬ風景が、やわらかい光に包まれてかすかに揺れていた。

 

花が舞うたびに、時間の膜が薄れていくようだった。

 

肩に落ちた花弁はひやりとしていて、つい先ほどまで枝にいたはずの温もりはなく、代わりに風の記憶をまとっていた。

軽く、柔らかく、それでいてどこか確かな重さがある。

ふいに頬をかすめた一枚が、まるで耳もとで誰かが囁いたように思えた。

 

踏みしめる小道は、やがて木々の影に溶けていく。

そこには人の手が加わった気配がわずかに残されており、石を敷いた縁のあたりには、かつて灯が並んでいたような名残があった。

今は苔に覆われ、緑の静けさのなかで眠っている。

 

指先で苔をそっとなぞると、わずかに水の気配が伝わった。

昨夜の露か、あるいは地下から滲むものか。

命というものは、声を発さずともそこに確かに息づいている。

土の奥にまで深く根を張り、誰にも知られず、ただ在ることを続けている。

 

ふと、足を止める。

 

見上げた先には、藤の花に覆われた一角があった。

風はそこだけ時間を変えて吹いているようで、他の場所よりもゆるやかに、ひと呼吸ごとにゆれていた。

光が差し込むたび、花房が揺れ、その間を蝶のような小さな虫が舞う。

 

音は消えていた。

太鼓も、笛も、舞も、すでにどこかへ還っていた。

 

残されていたのは、濃密な香と、どこまでも続く静けさ。

まるで祈りが終わったあとの、空白のような時間。

そのなかに身を置いていると、言葉は意味を失い、感情ですら輪郭を失っていく。

ただ、ここにいるということ、それだけが奇妙なほどくっきりと浮かび上がっていた。

 

石があった。

 

円を描くように並べられたそれらは、年月のなかで角が削れ、丸みを帯びていた。

中央には灰が積もっており、かつて火が灯されていたことを思わせる黒い痕跡が残されていた。

 

火が在った。

ここには確かに、夜があり、人が集い、灯された火があったのだ。

声が交わされ、手が伸ばされ、やわらかな笑みとともに、何かが分かち合われた。

 

そのすべては、もうここにはない。

けれど、失われたわけではない。

 

土がそれを記憶している。石が、それを刻んでいる。

風が、その香を運び続けている。

 

花がひとひら、円の中央に落ちた。

それはとてもゆっくりと、まるでそこに導かれるようにして舞い降りた。

 

見届けるうちに、思わず瞼を閉じる。

 

光の残像が、瞼の裏に広がっていた。

紫と白、うすい黄、そして赤の気配。

音のないその残響が、しばらくのあいだ消えなかった。

静けさの中に、遠い過去の色彩が、かすかに脈を打っていた。

 

目を開けると、藤の花が風とともに揺れていた。

 

歩き出す。

 

苔の感触は、いつのまにか足裏に馴染んでいた。

小道は少しずつ傾斜をつけ、やがて開けた場所へと導いてゆく。

視界の先、霞の向こうに、新たな藤が揺れていた。

 

その先に何があるのかは、知らない。

けれど、確かに何かが待っている。

 

音のない声が、背を押していた。

 

足元に、また一輪の花が落ちる。

 

それは、春の深くに潜む夢のひとかけらだった。




光はやわらかく傾き、空気の色を淡く変えていった。
花はすでに枝を離れ、香は、記憶とともに風に溶けた。
あの場所に残されたものは、言葉ではない。

石の下、土の奥、祈りの向こうに、静かに続いているものがある。
ふと立ち止まれば、それはきっと、今もどこかで息をしている。
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