泡沫紀行   作:みどりのかけら

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誰もが通り過ぎるだけの風景がある。
名を持たず、地図にも記されず、ただ季節のなかに沈みこんでいくような場所。

けれど、足を止め、耳を澄ませ、手を伸ばすときその沈黙の奥に、かつて確かにあった“声”が微かに蘇る。

旅は、見知らぬ地を巡るだけではない。
忘れられた記憶のなかへ降りていくことでもある。
風の輪郭を、光の手触りを、名もなき祈りの温度を、歩きながら拾い集めていくこと。

ある日、砂に刻まれた影を追って歩いた。
高く伸びた一本の木と、その根元に置かれた石たち。
その光景が、自分のなかに眠っていた“ある感覚”を、確かに呼び起こしたのだった。

この物語は、そうして出逢った風景の記録。
けれどそれは、記憶をなぞるのではなく、静かに内奥へと滲んでいく“感触”を辿るもの。

名もなく、声もなく、それでも確かにそこにあったものたちとの、ある旅の、ひとつの頁。


0226 ひとつだけ残った願い

乾いた砂が、足裏にわずかなしゃりりとした音を立てて崩れた。

風は穏やかに、しかし芯の冷たさを残して肌を撫でる。

日差しはやわらかく、その輪郭を持たないまま、ひとつの木の影を長く落としていた。

 

影は細く、そして背が高かった。

幹は痩せて、枝は空を求めながらも無口に、ただ在ることに徹していた。

葉は数えるほどしかなく、けれども確かに緑だった。

ここには、すべてが静かに、生きていた。

 

その木に近づくほどに、空気が別のものに変わっていく。

音が遠のき、匂いが深くなる。

塩と風と、かすかな炭の記憶が混ざり合うような気配。

それはもう、匂いというより、身体の奥に届く響きだった。

 

根元には、小さな石がいくつも置かれていた。

形も色もまばらで、けれど、並び方には不思議と乱れがなかった。

誰かが並べたのか、それとも風がそうしたのか。

それを決めることは、この場所では意味をなさない。

 

木の傍らに立つと、風の音がまるで声のように思えた。

遠く、遠くの記憶を呼ぶような。

それは話しかけているのではなく、ただ過ぎていく声。

耳ではなく、胸の奥で聞くもの。

 

遠い空から運ばれてきた雲は、葉の先に触れることなく通り過ぎていく。

雲と葉のあいだには、静かで揺るぎない距離があった。

その距離は、時間でもあり、祈りでもあるようだった。

 

光は淡く、空気の粒に満ちている。

その粒が、なぜかここでは見える気がした。

それらは踊ることもなく、漂うこともなく、ただ“留まって”いた。

世界が息を潜めているのではなく、自らの輪郭を思い出しているような、そんな午後だった。

 

草の上に腰を下ろす。

草はまだ冷たく、根の下の土が深い眠りのなかにあることを知らせる。

だが、冷たさは拒むものではなかった。

どこか、長く忘れていた温度だった。

掌を地につけると、石がひとつ、指の下で確かな硬さを主張した。

 

その石は丸く、小さく、表面にわずかな紋様があった。

偶然か、あるいは刻まれたものかはわからない。

けれど、そのわずかな凹みに指をなぞらせたとき、遠い場所の風が胸を過った。

 

ひとつの木と、ひとつの石と、ひとつの光が交わるこの場所で、ただ座っているだけで、言葉より深く伝わるものがあると知った。

いや、知るというより、それは“感じる”というよりもなお深く、存在に触れることのようだった。

 

風が、枝のあいだから抜けていく。

それはささやかな音を立て、けれども決して軽くはなかった。

どこかで誰かが泣いていた記憶が、風のなかに紛れていた。

それはもう涙ではなく、風のなかの水だった。

 

やがて空が、ほんの少しだけ濃くなった。

午後と夕暮れのあわいを告げる、最初の予兆。

その一瞬に、木の影が静かに角度を変えた。

まるで誰かが、そっと顔を上げたかのように。

 

影の先に、小さな裂け目のような窪みがあった。

乾いた土に、ぽつりと浮かぶ湿り気。

ひび割れた地面の中で、そこだけが呼吸をしているように見えた。

まるで地中から滲み出す記憶が、かろうじて形を保っているかのように。

 

そこに、白い花びらが一枚落ちていた。

風に運ばれてきたにしては、不自然なほど、静かだった。

掌に乗せれば消えてしまいそうなほど繊細なその花びらは、しかし土の上で、凛とした存在感を放っていた。

 

どこから来たのかは分からない。

けれど、ここにあるべくしてあると、そう思わせるものだった。

旅の途中で見かけた無数の光景のなかで、なぜこれほどまでに、ひとひらの白が胸に残るのだろう。

 

ふと、背後から聞こえたのは、小石を踏む音だった。

それは自分の足音だった。

すこしだけ、時間を遡ったような錯覚。

この場所にたどり着く直前の記憶が、風景の中に混ざっていく。

 

歩き続けていた道は、まるで誰かの掌のなかを渡っているようだった。

すべての風、すべての影、すべての沈黙が、あらかじめ用意されていたかのように、自分の前に差し出されていた。

それは、導きと呼ぶにはあまりに静かで、あまりにやさしかった。

 

あの一本の木も、はじめからこの場所に立っていたわけではない。

この地に根を張るには、幾つもの水と、火と、風を超えてこなければならなかったはずだ。

けれど、そうしたものの痕跡はすでにこの空気に溶けていた。

痛みが消えたのではなく、祈りとなって残っていた。

 

日差しが角度を変え、白い花びらの輪郭を淡く染めた。

光が当たるたびに、そこに新たな色が生まれる。

白とは、色の不在ではなく、すべての色を孕んだ可能性なのだと、

今さらながら思い知る。

 

土を掬い、小さな穴を掘る。

指先に伝わる冷たさと、そこに宿るわずかなぬくもり。

それらは確かに、過去から未来へと続くものだった。

何も語らずとも、手がすべてを記憶していた。

 

白い花びらを、その小さな窪みにそっと置いた。

風が吹く。

だがそれは、花びらを攫うことなく、むしろ守るように流れていった。

すべてが、この瞬間に向けて静かに積み重ねられてきたのだと思えた。

 

遠くで波が立つ音がした。

ここからは見えない、けれど確かにそこにある存在。

音は絶え間なく、だが決して同じ音ではなかった。

ひとつひとつが異なり、ひとつひとつが記憶だった。

 

この場所に立っていると、あらゆるものが繋がって見えた。

枝と雲、石と風、記憶と祈り、過去と未来。

それらは一本の細い線の上に均衡を保ち、そして、その線の名を、人は“今”と呼ぶのかもしれない。

 

しばらく座り込み、目を閉じる。

耳を澄ませると、自分の鼓動が風に似ていた。

遠くから聞こえてくる波の音と、どこかで重なっていた。

 

立ち上がる。

草の感触がふくらはぎに残る。

背後に木が、影を静かに揺らしていた。

振り返ることなく歩き出すと、足音はすぐに風に溶けた。

 

旅の途中に出会った、一本の木と、ひとひらの白と、誰かが置いた石。

それらは、何も語らなかった。

だが、その沈黙が教えてくれたものの重さは、どの言葉よりも深く、今も胸の奥に降り積もっている。




再び歩き出した足元には、なにも変わらない道が続いていた。
空も、風も、草の匂いも、先ほどまでと同じように見える。

けれど、どこかで確かに何かが変わっていた。
それは風景ではなく、自分のうち側の、まだ言葉にならぬ小さな種のようなものだった。

一本の木は、今もそこに立ち続けている。
その影を誰が見るでもなく、ただ時を織り続けるようにして。

その根元に咲くことのない花が、見えぬまま、胸の奥に咲いた気がした。
白い、透きとおるような、知の花。

何を知ったのか、何を思ったのか。
それを言葉にすることはできない。
けれど確かに、何かが胸の底で静かに揺れた。

旅は終わらない。
風が吹き、影が伸び、記憶のかけらがまたどこかへと誘うだろう。
そのすべてを、ひとつひとつ歩きながら受け取り、また静かに手放していくのだ。

そうして、今日という一日もまた、石のように、祈りのように、ひっそりと時のなかに刻まれてゆく。
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