泡沫紀行   作:みどりのかけら

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それは、風がまだ名を持たぬ頃のことだった。
ひとひらの記憶が、土の深くに沈み、石となった。

誰にも語られることなく、ただ眠り続ける祈りがある。
誰にも見つけられることなく、ただそこに在る記憶がある。

歩くということは、忘れられた物語を呼び起こすことに似ている。
土の匂い、木々のざわめき、空の色。
それらすべてが、声を持たぬ声で語りかけてくる。

今、またひとつの扉が音もなく開かれる。
そこには名を持たぬ鬼たちが眠っている。

彼らの夢の中に沈むように、静かに、足音だけを連れて、その場所へと向かう。


0227 鬼たちが眠る記憶の館

木々の間に濃く流れる霧の気配が、肌に触れずともわかるようになったのは、いつからだったか。

石を抱いたような静けさの中、歩を進めるたび、草の根がじわじわと足音を吸い込んでゆく。

空は曇りではなく、光の層が静かに折り重なっているだけのようで、昼とも夜とも言えぬ灰青の匂いが息の奥に染み込んでいた。

 

道なき斜面には、ところどころ苔のしみついた石が並び、それらはすべて、何かを背負うようにして地に伏している。

眼差しを持たぬ石のひとつひとつが、誰かの記憶を抱えて眠っているようで、無言の重みが肩へと下りてきた。

 

風は動かない。

ただ、葉が擦れる音だけが低く流れ、耳の奥にゆるやかに広がる。

 

一つ、枝の先に残った実があった。

干からびる寸前で凍りついたようなかたちのまま、陽も陰も拒むようにそこにあった。

掌を伸ばしても届かぬ高さにあるその小さな実は、誰かが忘れていった祈りのかけらのように見えた。

 

崩れかけた土の小径を越えると、石の並ぶ静かな敷き地に出る。

空の色が少しだけ変わり、風景が呼吸を始めたように感じた。

そこには、黒く滑らかな屋根が幾つかの時を包み込むようにして重なり合い、木の壁は風雪を吸ってなお静かな温もりをたたえていた。

 

鳥の影が、一羽、横切った。声はなかった。

 

足元に転がる石の一つに、わずかな線が彫られていた。

誰かの手が、夜の中で彫りつけた名もなき祈り。

それは言葉ではなく、刻まれた時の向こうにだけ意味を宿しているようで、指先でなぞることも許されぬような、静けさの中の約束だった。

 

壁の隙間から、しんとした空気が流れてくる。

かつて炎が灯されていたであろう場所の名残が、煤となって木の肌に染みついている。

そこに宿っているのは、話されたことのない物語たち。

語る者を持たぬ記憶が、無数の面に閉じ込められたまま、今も微かに震えている。

 

足を踏み入れると、踏み板がかすかに鳴いた。

音はすぐに天井へ昇り、そこから何度か揺り戻されてから消えた。

壁には、無数の面が掛けられていた。

それぞれが異なる表情を持ち、怒り、嘲り、哀しみ、祈りを湛えながら、決して声を発しない。

仮面であるはずなのに、そこに人の顔の気配があった。

誰かを演じたことのない面。

誰かを隠したことのない面。

ただ、そこにあることが意味であるような静けさだった。

 

奥へ進むほどに、空気が冷たくなってゆくのではなく、重くなっていった。

空気に混ざるものの正体は、時間の粒子か、それとも失われた記憶の断片か。

視界の端に、ひときわ大きな面が見えた。

赤と黒と灰の濃淡が、感情の痕跡のように絡みついていて、ただ見るだけで、心の奥の見たくない部分がそっと掬い上げられるようだった。

 

手を伸ばして触れることはしなかった。

指先が、その面の何かを乱してしまうような気がしてならなかったからだ。

 

壁の隙間から、細く、光が射していた。

埃の粒がその光を泳ぎ、まるで言葉のない歌のように空間を満たしていた。

何かを言いかけてはやめるような、そんな呼吸が、その部屋全体にあった。

 

背を向けるとき、足元にひとつの石があった。

丸くもなく、角ばってもおらず、どこにも属さぬ形をした石。

その表面には、かすかに削られた跡があり、それは言葉にも文様にもならぬまま、誰かの想いの名残だけを留めていた。

 

その石を踏まぬように、そっと足を運んだ。

 

外に出ると、光の具合が少し変わっていた。

風はまだ吹かず、ただ空気がわずかにゆらいでいる。

鳥の影はもういなかった。

葉のざわめきもやみ、ただ、遠くで水が石に当たるような音だけが、時折、かすかに響いていた。

 

枯れかけた枝の先に、ひとしずくの水が残っていた。

どこから来たのかも分からぬその水は、葉脈の上で震え、やがて音もなく落ちた。

足元の土に吸われたその雫は、目に見えぬ何かを呼び起こしたようで、周囲の静寂が、ほんのわずかに色を帯びる。

 

ふと視線を上げると、建物の裏手に回り込むような細い小道があった。

杉の根が絡み合うその道は、誰にも見つけられないように静かに口を開いていた。

地を這うように伸びた苔は、誰かの足音を記憶しながらも、決して語らない。

 

ゆるやかにその道を辿ってゆくと、石と石の隙間に咲く花が見えた。

色は褪せ、形は風に削られながらも、そこにあるということだけが奇跡のようだった。

触れれば崩れそうなその花は、祈りではなく、ただの存在だった。

名を持たぬ命の、淡くて確かな形。

 

少し先に、地面に深く彫り込まれた模様があった。

円を中心にしていくつもの線が放射し、交わり、重なり合っている。

誰かの手が何日もかけて刻んだものなのだろうか。

それとも、自然の気まぐれが偶然に描いたものか。見分けはつかない。

ただ、そこに刻まれた何かが、この地に長く留まっていることだけは確かだった。

 

その場に立ち尽くすと、耳の奥に、鼓膜をかすめるような微かな音が届いた。

音とも言えぬその気配は、言葉の形を取らぬまま、ただ「ここにいる」とだけ告げていた。

風の流れが変わったわけではない。

木々が揺れたわけでもない。それでも空気が、少しだけ別のものになった。

 

その場所には、何かが眠っていた。

 

人ではなく、獣でもなく、名を持たぬままに姿を留めた「もの」たち。

彼らは怒りや悲しみを超えた先で、ただ存在している。石のように、木のように、そして影のように。

祈られることを望まず、忘れられることも恐れず、記憶の奥で黙って佇んでいる。

 

ふと、背中に風が触れた。

初めて感じる、その地での風だった。

 

それは冷たくはなかった。

むしろ温もりを含んでいた。誰かの掌のように、そっと背中を押す。

立ち止まっていた足が、自然とまた前へと進み始めた。

 

振り返ると、館の屋根はもう見えなかった。

木々の影が重なり、そこに何もなかったように景色は静まり返っていた。

先ほどまでの音も気配も、すべてが霧の奥へと溶けていったようだった。

 

手に、石を一つ持っていた。

いつ拾ったのか思い出せない。

ただ、形は掌にすっぽりと収まり、まるでここに来る前から持っていたような感触だった。

表面はわずかに濡れていた。水か、それとも時間の残り香か。

 

その石を、道端の草むらにそっと置いた。

誰にも見つけられないように。

けれど、誰かがいつか、必要とする時が来るのならば、そこにあると分かるように。

 

空は相変わらず、淡く色づいたまま沈黙を続けていた。

光はただ、すべての境界をなぞるように降り注ぎ、歩く道の端にだけ、わずかな影を落としていた。

 

影のかたちは、少しだけ変わっていた。

気のせいかもしれない。

けれど、ほんのすこし、背が伸びたような気がした。

 

静かな音もない世界の中で、ただ一歩一歩、足元の感触だけを確かめながら歩いた。

草の匂い、土のざらつき、石の冷たさ。

それらすべてが、まだ言葉にならぬまま胸の内に沈み、やがて物語に変わるのを、ゆっくりと待っていた。

 

そしてまた、霧が降りてきた。

 

目の前の道がぼんやりと霞み、その先に何があるのか分からなくなった瞬間、なぜか少しだけ、心が軽くなったような気がした。

 

記憶の館はもう遠く、けれどまだ、背の内側で息をしている。

忘れることも、憶えていることも、同じように優しかった。

その優しさが、次の一歩を導いてくれるようだった。

 

どこへ行くのかも知らず、ただ、歩いた。

 

風が、ようやく、吹き始めた。




石の夢は、まだ終わらない。

土に置かれた祈りのかけらは、いつか再び誰かの足元に触れるだろう。

仮面たちは語らない。
けれど確かに、何かを伝え続けている。
怒りも、悲しみも、静かな願いも、時間の奥でかたちを変えながら、眠る者たちの胸に息づいている。

風がすべてを洗い流すことはない。
霧がすべてを覆い隠すこともない。

ただ、歩くこと。
ただ、感じること。

それだけで、物語はまたひとつ、形を得る。

忘れられた記憶の館は、今もどこかで、誰かの足音を待っている。

静けさの向こうで、祈りは今日も石のかたちをして、そこに在る。
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