泡沫紀行   作:みどりのかけら

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冬のはじまりに、ひとつの静けさが降りてくる。
それは音のない鈴の音のように、空からゆっくりと舞い、あらゆる輪郭をやわらげてゆく。
時間がかすかに遅れ、記憶の底に沈んでいた風景が、薄く目をひらく。

誰に呼ばれることもなく、誰を待つこともない道がある。
その道は白く、ただ白く、地の果てと空の始まりをゆるやかにつないでいる。
名もなく、名残もなく、ただ歩いていくことだけが許される道。

そこでは風がすべての代わりに言葉を運び、石は遠い過去の祈りを胸に沈めたまま、雪の下で息を潜めている。

歩く者の足音だけが、その世界に一瞬の証を刻む。
すぐに消えゆく証。それでも確かに触れた、確かに在ったという感触。

その白の道へ、いま、一歩を踏み出す。


0236 白の道をゆく風の使者

雪は声を持たぬ祈りのように降っていた。

肌を撫でる風は細く、どこか躊躇いがちで、足元に伸びる道の白は、眠りかけた世界のまぶたの裏のようにぼんやりとしていた。

足跡ひとつない、誰にも触れられていない頁のような斜面が、ゆるやかに空へと反り上がっていく。

そこに、風の名残りだけが文字のように線を引く。

 

背を押すようにして吹いた突風が、裾を巻き上げ、睫毛の先に氷の粒を置いていく。

 

息はすぐに白く結び、目の奥で凍る。

けれど寒さに震えることはなく、指先はむしろ澄んでゆく。

冷たさが輪郭を明確にし、存在を研ぎ澄ます。

歩を進めるごとに、身体が静かになっていく。

思考が剥がれ落ち、代わりに雪が積もっていく。

 

木々は枝ごと白く息を潜めていた。

重みに耐えるようにして首を垂れ、まるで誰かの言葉を思い出しているようだった。

細い枝先が、風に合わせてかすかに揺れるたび、粉雪が舞い上がる。

その舞はひとつひとつがまるで異なる祈りの断片であり、空へ帰ろうとする音なき羽ばたきのようだった。

 

耳を澄ませば、遠く、深く、凍った大地の下から眠りの音が聞こえる。

とても古い音。雪よりも前からそこにあった、石の夢が脈打つような、低くやさしい鼓動。

誰にも触れられず、何千年もひとところにとどまりながら、ただ春を夢みていたものの静けさ。

 

足元を渡る風が、突然、笑うように舞った。

小さな渦となって白を巻き上げ、細道の脇に消えていく。

その風の通った跡には、ひとつだけ残された枯れ枝があり、雪の上に影を落としていた。

まるで誰かがここにいた証のように。

 

時間は、凍っているわけではなかった。

むしろ、過ぎるという概念から解き放たれているようだった。

空は乳白色で、太陽の位置さえ曖昧だ。

それでも確かに昼であり、光は柔らかく、降る雪を通して、すべてを内側から照らすようにしていた。

 

風が吹くたび、雪はかすかに形を変え、道はあらたな姿になる。

道と言っても、それがどこから来て、どこへ向かうのか、知る術はない。

ただ、そこに白が続いているという事実だけが、足を前へと運ばせる。

 

ときおり、雪の下から石の端が顔を覗かせている。

凍てついた苔の破片や、ひび割れた土の記憶が、淡く黒くそこに息を潜めている。

誰かがかつてここを歩いたとすれば、その痕跡は今、雪に包まれている。

ただ、石がそれを覚えている。

 

指先でそっとその石に触れると、ひやりとした感触があった。

だがそれは冷たさではなく、長い眠りにある者の体温のようでもあり、静かに鼓動していた。

手を離すと、また雪がその輪郭を消していった。

 

風の音は、呼びかけのようでもあった。

いや、呼ばれているのではない。

ただ、誰かが遠くで歌を口ずさんでいるのを、こちらが偶然聞き取ってしまっただけ。

そんな気配があった。

 

歩みは重くもなく、軽くもない。

ただ静かに、靴底が雪を踏むたびに、その音が白に吸い込まれていく。

沈黙が音を食べ、記憶のように消していく。

声なきものたちが、この世界を満たしている。

 

雲の切れ間から、陽がわずかに差し込む瞬間があった。

 

そのときだけ、世界がまるで息を吸い込んだかのように思えた。

木々が目を細め、雪が金に近い色を灯す。

影は長く細く伸び、風の輪郭が透かし彫りのように明らかになる。

 

光の道ができた。

 

それはまるで誰かのために用意されたように思えるが、同時に、ただそこに存在していただけのようにも感じられる。

 

次の一歩が、その光の道の上に落ちたとき、雪がひとひら舞い、頬に触れた。

 

足元に降りた雪はすぐに溶けず、薄く、ぬるむこともなく、そこにとどまり続けた。

まるで触れた肌を忘れたくないと願うように。

あるいは、名を告げる前に姿を消した風の使者の、最後の手紙のように。

 

振り返っても、踏みしめたはずの道はもう見えない。

雪がすべてを包み隠し、過去の痕跡はこの白の世界からすぐに消えていく。

残されたものは、胸の奥で脈打つような、静かな余韻だけだった。

 

空はますます霞み、境界を失いながら広がっていく。

木々の間にひらけた尾根を越えると、風景は大きくひらけ、見渡す限りの白が、緩やかなうねりとなって続いていた。

そこに線はなく、始まりも終わりも見えなかった。

 

遠く、雪原を横切っていく一筋の影があった。

人か、獣か、それとも風の戯れかはわからない。

けれど確かに何かが通った痕が、雪のうえにかすかに残っていた。

斜めに傾く太陽の光を受けて、その線は銀に近い色で煌めいていた。

 

近づくにつれて、それが風にさらわれていく。

影の名残が薄れ、かき消され、やがて消えた。けれど、そこに何かがあったことだけは、確かに肌が覚えている。

気配だけが、空気の底に残っている。

 

息を吸うと、深い冷気が喉奥まで流れこみ、胸の内側を研ぐようにして通っていく。

その鋭さが、不思議と安心を連れてきた。

余計なものをひとつずつ手放していくような、余白の感触。言葉ではなく、沈黙によって語られるなにか。

 

足元の雪が、とつぜん、わずかにやわらかくなった。

それは道のわきに湧いた、凍らぬ泉の気配だった。

湯気のようなものがわずかに立ちのぼり、空気がかすかにゆれていた。

地の底で燃える命の余熱が、地表へと滲み出していたのかもしれない。

白のなかにひそむあたたかさが、指先の感覚をひらいていく。

 

しゃがみこみ、雪の膜をそっと押しのけると、そこに露わになったのは、黒々とした地肌だった。

しっとりと濡れた石が、低く息づくようにして横たわっていた。

触れた指に、ゆるやかに伝わってくるぬくもりがあった。

それは、何かを守るような温度だった。

 

やがてまた風が吹き抜け、冷たい空気がその場所を包み込む。

石の上にうっすらと雪が舞い戻り、温もりを覆い隠していく。

指を離し、立ち上がる。名残惜しさではなく、自然とそうするべきだと思えた。

 

歩みを再び前へと向けると、視界の先に、微かに光る白い稜線が見えていた。

あれがこの道の果てか、それとも新たな始まりか。

そんなことは知らずにいていい。

いまここにある白が、すべてだった。

 

太陽はゆっくりと沈みかけていた。

だが、影が長くなるにつれて、白の世界はむしろ明るさを増しているようにも感じられた。

雪は光を手放さず、夜に向かうその瞬間までも、美しく在ろうとしていた。

 

頬に触れた風が、かすかに音を運んできた。

それは誰かの靴音のようでもあり、遠くで鳴る鐘のようでもあった。

思い違いかもしれない。

けれど、耳を澄ませば澄ますほど、その響きは確かにそこにあった。

 

いまはもう姿の見えない誰かが、かつてこの道を歩いたこと。

その記憶だけが、風に溶け、雪に抱かれ、この白の道にそっと刻まれている。

 

振り返らずに、ただ進む。

ひとつ、またひとつ、雪のうえに影を落としながら。

 

そしてその影さえも、まもなく風が連れ去ってゆくのだった。

 




雪はすべてを受け入れ、すべてを包んでゆく。
声なきものたちの記憶も、見えぬまなざしの温度も、風に託された祈りさえも、何ひとつ拒むことなく。

かすかな音が、静けさのなかで溶けていく。
それは旅の終わりを告げるものではなく、ただ、つづきの余白を残すような、やわらかな間。

誰もいないはずの場所に、確かに在った気配。
歩いたということ。触れたということ。
そのすべてが、白の世界のどこかで、そっと眠っている。

そしてまた、雪が降る。
新たな足跡を待つように、あらたな祈りの頁をひらくように。
名もなき風の使者が、再びこの道を通る日を信じながら。
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