泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風のない午後だった。
空はすでに秋の色を帯びながらも、どこか名残の光を手放せずにいた。
遠くの山々はやわらかな靄に沈み、そこに刻まれた線は、時間の流れを忘れたように曖昧だった。

歩き続けるうちに、言葉がひとつずつ剥がれ落ちていく。
思考の輪郭も、記憶の重さも、風にさらわれる砂のように溶けていった。

そして、たどりついたのは、名もない丘だった。
その場所には、石と、花と、沈黙とが、まるでひとつの呼吸のように寄り添っていた。

何かが始まるのではなく、ただそこに在るものと、静かに触れあうような午後。

紫の香が、光よりも先に、心へ届いていた。


0237 紫の香が誘う幻想の丘

丘を登るたび、靴底に乾いた葉がひそりと割れてゆく。

陽の傾きは遅く、けれど確かに傾いており、空気は微かに金の縁を帯びていた。

ひとすじの風が、指のあいだをすり抜ける。

肌に触れたものは風でありながら、どこか遠くの土のにおいも含んでいた。

 

道の両脇には低い石が点在し、苔むすもの、ひび割れたもの、ひとつひとつが、誰かの祈りを今も封じているように見えた。

それらの石には名もなく、意味もなく、ただそこにあることが、確かな重みであった。

うつむきながら歩けば、地面に落ちた小さな影が、木々の枝とともにゆらぎ、あたかも時間そのものがゆっくりと揺れているかのようだった。

 

静けさのなかに、遠く小さな羽音が重なる。

それは蜂か、あるいは見たことのない翅を持つ、秋の精だったのかもしれない。

音は香りへと変わり、香りは色へと滲んでゆく。

 

紫。

 

それは、音よりも静かに立ち上がる気配だった。

ほのかで、確かで、懐かしいのに、どこにも記憶の端を引っかけることができない——

そんな香りが、ゆるやかに丘の上へと誘ってゆく。

 

やがて現れたのは、低く広がる群れのような、紫の影だった。

風が吹くたびにゆれる無数の細い茎。

その先端に灯されたような、小さな紫の炎が、夕陽の光に溶けながら揺れている。

 

ここには、言葉を必要としない沈黙がある。

誰のためのものでもなく、ただ花が咲いている。

その在り方が、石とよく似ていた。

語らぬものほど、深く、遠く、心に触れてくる。

 

しゃがみこんで、土に近づいた。

土は乾いておらず、微かに温かかった。

草の香が、指先に移る。

紫の花を一つ、そっと指先に触れようとして、やめた。

それはまるで、夢を手で触れて確かめるような行為に思えたから。

 

風がまた吹いた。

背の低い紫の群れがざわりと揺れて、沈黙の波を起こす。

 

空を見上げると、夕陽がほんのわずか、赤みを深めていた。

遠く、山のかたちがわずかに黒ずみ、影の輪郭が静かに広がっている。

それは、この日が、ひとつの物語を終えようとしている気配だった。

 

あたりには誰もいない。

鳥の声も、虫の羽音も消えていた。

あるのはただ、紫の香がゆっくりと漂うこの丘の、静かな息づかい。

 

腰をおろし、そっと背中を草に預けた。

冷たさが衣をとおして、皮膚へとしみ込んでくる。

けれどそれは不快ではなく、むしろ身体の奥を静かに鎮めるような感触だった。

 

瞼を閉じると、いくつもの紫が、まぶたの裏で揺れていた。

そのひとつひとつが、かつて見た夢のようで、あるいはまだ見ぬ記憶のようで——

名もなく、輪郭も曖昧なまま、ひたすら優しかった。

 

遠くの空に、鳥の影がひとつだけ浮かんでいた。

その影がどこへ向かうのかを、誰も知らない。

けれど確かに、あの鳥は風に逆らわずに進んでいる。

 

風とともにあるものは、きっと迷わない。

 

掌に土を少し掬ってみる。

ざらりとした感触が皮膚をなぞり、そこにふと、温かな匂いが立ちのぼる。

この香りは、どこかで知っている。

けれどその場所が思い出せないまま、ただ秋の匂いとして、深く吸い込んだ。

 

やがて、日が傾ききる。

光は紫から朱へ、朱から褐色へと変わりながら、すべてを静かに包みこんでいった。

それはまるで、声のない祈りが空から降りそそいでいるようだった。

 

紫の花々は、まだ揺れている。

しかしその揺れは次第に静まり、風の粒子さえ、空気に溶けはじめている。

重くもなく、軽くもなく、ただしんしんと、何かが満ちてゆく気配。

 

立ち上がると、足元の影が伸びていた。

影はやわらかな傾斜をゆっくりと這い、石たちの眠るほうへと消えていく。

その途中、ひとつの石の前で足が止まった。

 

苔に覆われた小さな石だった。

手のひらほどの大きさで、表面にかすかなくぼみがある。

その形は、言葉にも形容にもならず、ただ“在る”という以外にどうしようもないものだった。

 

指先でそっと触れると、ひんやりとした感触の奥に、時の重みが宿っていた。

まるで何百ものまなざしが、そこに積もっているようだった。

過ぎ去った誰かの記憶が、消えずに残っている気配。

声なき願いが、今もまだ石の奥で、微かに息をしているのかもしれない。

 

その場を離れ、再び歩き出す。

丘の先にはまだ、わずかな光が残っている。

紫の気配がうすれ、かわりに草の緑が深まってゆく。

同じ風なのに、香りが変わっている。

いのちの移り変わりは、こんなにも静かで、優しい。

 

遠くに、木々のうねりが見えた。

そのシルエットは波のようであり、あるいは、かつて見た山の背のようでもあった。

だが、それが何であるかを確かめようとは思わなかった。

今はただ、流れゆく光と香りのなかに身を委ねることがすべてだった。

 

草を踏む音が、心の奥にしずかに響く。

秋の午後は、もう夜へと溶けかけていた。

そのなかで、自分がひとつの点のように在ることが、不思議なほどに心地よかった。

 

丘を下りながら、何度も振り返った。

あの紫の花たちは、遠ざかるほどに霧のようになり、やがて色さえも霞んでいった。

けれどその香りだけが、まだ衣の内側に染みついていた。

 

草の葉が、露を含んでいた。

指先でそっと触れると、冷たさとともに透明な光が手に移る。

それは水でもなく、涙でもなく、ただそこにあった。

 

沈黙と、香と、石と、花。

そのすべてが、ひとつの風景を描いていた。

それを「記憶」と呼ぶには、あまりにも言葉が追いつかない。

ただ、胸の奥に静かにひとつの輪が広がっている。

 

それは波紋のように、心の底でずっと消えずにいた。

 

丘を離れたあとも、あの紫の炎たちは、

夜の奥でまだ、ゆるやかに揺れていた。




夜がすっかり満ちていた。
空に星はなく、けれど闇は優しかった。

振り返っても、あの紫の丘はもう見えない。
だが、香りの記憶だけが、歩みとともにまだ胸の奥で揺れている。

誰のものでもない祈りが、あの石たちのなかで、今も静かに眠っているのだろう。
誰にも名づけられなかった想いが、花となり、風となり、沈黙のなかで、季節をくり返してゆくのだろう。

ここに刻まれた夢は、もう語られることはない。
けれど、ひとたび香りに触れた者の内に、確かに残る。

秋の午後に咲いた、名もなき紫の灯。
それはまだ、心の奥で、音もなく燃えつづけていた。
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