泡沫紀行   作:みどりのかけら

238 / 1187
薄明かりの下、草を踏む音が、まだ眠る森の奥で小さく弾ける。
空気はしっとりと肌に寄り添い、目に映るすべてが、いま生まれたばかりのもののように見える朝だった。

地に伏せる石が語ることを、誰も聞こうとしない。
けれど、そこに在るというただそれだけの姿が、なぜだか深く胸をゆらすときがある。

土の香り、水のにおい、光の滲み。
名もなく失われてゆく小さな祈りが、ふとした拍子に、足もとへ宿ることがある。

音のない風が吹き抜けたあと、沈黙がもう一度、すべてを包み直す。
そのなかで、ただ歩きつづけること――
それだけが、なにかと繋がっている確かな手応えだった。

まだ誰も踏み入れていない影のなかに、記憶の輪郭が潜んでいる。
その影を追うように、流れる水の音が、遠くから呼んでいた。


0238 静寂を割る水のささやき

足裏に残る土のぬかるみが、まだ朝の露を引きずっていた。

苔むした岩の端に影が重なり、滴る水音が、時間よりも先に歩いていく。

 

静けさという名の風が、葉の裏を撫でながら渡っていった。

ひと筋の光が、鬱蒼とした緑のあいだから差し込むと、あたりのすべてが、まるで息を止めたかのように沈黙する。

 

視界の奥、崖に穿たれた岩肌が、古の言葉のように重く、そして柔らかく横たわっている。

かすかに刻まれた紋のような亀裂が、誰かの祈りの名残であるかのように、濡れて光っていた。

 

川面には、天と森と岩の影が交じりあって、複雑なゆらぎを織っている。

手のひらを水へ伸ばせば、その冷たさが、まるで静寂のかけらを掌に載せたように身を貫いていった。

 

流れは緩やかに、しかし決して止まらず、時折、岩の根元で白い泡を立てて、音もなく弾けていく。

その泡のひとつひとつが、何かしらの記憶を抱えては、すぐに形を変え、音も匂いも残さずに消えていくようだった。

 

風は少し湿っていた。

木々の間から落ちる雫が、時折、肩を打った。

それが冷たいのかどうかも、しばらくは分からず、ただ、音として身体に染み入っていく。

 

あたりにあるものは、すべてが静寂を尊んでいた。

水の流れさえも、その律を守って、ただ慎ましく進んでいるように思えた。

 

陽が高くなるにつれて、川の色がゆるやかに変わっていく。

翡翠のような深みが、ある瞬間、浅い琥珀にすり替わり、またすぐに翳りを増していく。

川底に沈む石の輪郭が、時おり光に揺れては、少しだけ現れて、すぐにまた水の面に溶けた。

 

足を止めると、流れの音だけが残った。

それは「ささやき」と呼ぶにはあまりに澄んでいて、「歌」と呼ぶにはあまりに慎ましい。

 

この地に長くしみこんだ沈黙が、水と岩と光とをつなぎ、言葉にならない調べを生んでいるのかもしれなかった。

 

奥へ進むほどに、崖の切れ目が迫り、空が細くなっていく。

視界が絞られるにつれて、耳は次第に研ぎ澄まされていく。

 

遠くで、一羽の鳥が、声にならぬ声を空へ投げた。

その響きが、岩と岩のあいだで跳ね返り、何倍にもなって戻ってきた。

すぐに風がそれを攫い、音の気配だけがあとに残った。

 

崖の端に沿って、古い藤の蔓が垂れている。

花の盛りはとうに過ぎ、色褪せた房が水の上に揺れている。

その影が川面に落ちて、柔らかく揺らめいたとき、水の色がふと、記憶のような明るさを帯びた。

 

一枚の葉が、どこからともなく流れてきて、目の前を通り過ぎた。

それは、どこにも属さぬ思念のように、ゆっくりと、だが確実に下流へと滑っていった。

 

背後にあった森のざわめきが、ふと止み、風すらも身をひそめた。

ただ川だけが、あいかわらず慎ましく、同じ流れを保っていた。

 

この流れが刻んだものは、祈りか、約束か、それともただの時の気配か。

それを見極めるには、もう少しだけ、ここにとどまって耳を澄ませる必要があるように思えた。

 

川は語らない。ただ、割れた静寂の向こうで、水が水の声を聴いていた。

 

川の流れが細くなった先、両岸の岩は次第にせり出し、空はほとんど見えなくなっていた。

苔のにおいが濃くなり、湿った空気が喉の奥にじっとりと残る。

 

崖にへばりつくように生えた小さな草たちは、日を求めて伸びあがっていた。

その葉のひとつひとつに、水の粒が宿っていて、わずかな光でも虹をつくり出す。

風のない谷間で、それらの虹は消えもせず、かすかに揺れるだけだった。

 

岩肌には、幾筋もの水のしみがあった。

数十年のあいだを流れ続けたであろう細流が、岩を削り、磨き、やがて表面を彫りあげる。

その跡が、ある種の書のように見えることがあった。

読めぬ言葉。

だが確かに意味があると感じさせる、静かな痕跡。

 

足もとには小石が積もっていて、ときおり踏みしめる音が、峡の静けさを割って響いた。

音はすぐに岩に吸われ、空気のなかへ染み込んで消えていく。

その消え方すらも、何かに守られているようなやさしさがあった。

 

この流れを見ていると、時というものが、たった一つの方向にしか進まないということに、疑いを持ちたくなる。

過ぎ去るものがすべて過去になるとは、ほんとうに誰が決めたのだろう。

この水が、遥か上流の石を撫でた指と同じものであるとしたら、その感触は今もどこかに残っているのではないか。

岩が抱えた冷たさの奥に、ほんのかすかな温度の名残として。

 

足を滑らせ、片足が水に浸かった。

冷たさが、膝の奥へと瞬く間に届き、身体が一瞬だけ現実へ引き戻される。

しかし、それもすぐに遠ざかっていく。

濡れた裾が、歩くたびに重く揺れ、湿った音を奏でる。

 

振り返ると、来た道がまるで幻のように霞んでいた。

まったく同じように見えていた景色のひとつひとつが、逆向きに見ることでまるで違うもののように立ち上がる。

岩の亀裂も、草の傾きも、水の光も、いまやすべてが別の顔をしていた。

 

奥へと進むうち、川幅が再び開け、空が高くなる。

岩の上に咲いた名もなき白い花が、一輪だけ風に揺れた。

それはまるで、水のささやきを聴き取ったかのように、静かにうなずいているようだった。

 

光は真上から降りてきて、水面を跳ねた。

跳ね返る光が岩肌を走り、あたりの空間が一瞬、薄く震える。

その震えの中で、自らの呼吸の音すらも、どこか遠くのもののように感じられる。

 

そのとき、遠くからひとつの音が近づいてきた。

それはまるで、誰かが水のうえを指でなぞったかのような、微かな、けれど確かにこちらへ向かってくる音だった。

音は、水面に浮かぶ影とともに現れ、やがて視界の中に形となってあらわれた。

 

水に寄り添うように進む、細長い舟の影。

声もなく、波も立てず、ただ水と同じ速度で進むそのかたちは、この世のものとも、夢のなかのものともつかぬあいまいさをまとっていた。

 

舟の上に人の気配はあった。

だがそれは人というよりも、風のようで、時のようで、ただそこに「ある」だけの存在だった。

漕ぐ音ひとつ立てぬその舟が、自分のすぐ脇を通り過ぎたとき、空気がわずかに揺れた。

 

何も語らず、何も残さず、舟は静かに遠ざかっていった。

ただひとつ、通り過ぎたあとの水面に、小さな輪が広がり続けていた。

 

それを見つめていると、胸の奥に、名もなき感情のようなものが浮かんでは沈んでいった。

その正体は、言葉にならない。けれど確かにそこに在った。

 

崖の縁に腰を下ろし、水の音に耳を澄ませる。

目を閉じると、遠くの岩の間をすり抜けてくる風の気配が、まるで昔から知っていたように頬を撫でていった。

 

水のささやきが、石に刻まれ、光に包まれ、風と共にある限り、ここは変わらずここにあり続けるのだろう。

そして、自分もまた、ほんのしばらく、その静けさの一部であったのだと――そう思えた。




背を向けた流れの音が、しだいに遠ざかる。
水に映っていた空が、もう視界にはないのに、まぶたの裏でしずかに揺れていた。

手のひらに残る冷たさは、すでに温もりへと変わりはじめている。
ただの水だったはずの感触が、どこかで名もなき気配を抱いて、いつまでも離れようとしない。

歩きながら、ふと立ち止まるたび、身体の奥にひとつの音が満ちてゆく。
それは川の声ではなく、風の音でもなく、自らの内側に染み込んだ静けさの残響だった。

すべての光景が、記憶という器に注がれて、音も匂いも色彩も、いま静かに沈んでいく。
そこに意味はない。
だが、たしかな在りかがある。

もう川の流れは見えない。
けれども耳を澄ませば、今も水が、あの石にささやいているのがわかる。

そのささやきは、自分のなかでもまだ、終わっていなかった。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。