泡沫紀行   作:みどりのかけら

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足音だけが時を刻む旅路。

言葉の届かぬ深奥に、
名もなき泉の音が、
ひそやかに記憶を呼び覚ます。


0024 妖精の湧泉

葉の影が落とす光の破片を追いながら、私は山の奥へと歩いていた。

湿った大地の匂いと、かすかに鼻を刺す硫黄の香。

遠くで鳥の声が短く鳴き、すぐに森の沈黙に飲まれていった。

 

川沿いの細い踏み跡を辿るにつれ、岩が増え、草が減り、足元の水音が次第に熱を帯びていく。

川とは呼べない浅い流れ。けれど、それは冷たくない。

指先で触れると、ふんわりと湯が返る。

それは、まるで眠っていた大地の呼吸が、静かに肌を撫でてくるようだった。

 

霧が垂れていた。

天から落ちるわけでもなく、地から湧くわけでもない、

ただそこに在る、白くて柔らかなもの。

霧の粒は光を受けて白銀に弾け、岩肌を包み込み、あらゆる音を丸くする。

 

湯が岩を伝って流れている。

冷え切った世界の中で、あたたかな流れが、斜めに、いくつも、

小さな滝となっては流れ落ちる。

岩は、濡れているのに白い。

白というより、光をまとった石のように見えた。

水の温かさが、この場所の記憶を保っているのだと、

そんな気がした。

 

ひときわ大きな岩に足をかけると、湯の滝が目の前に開いた。

音は激しくない。

けれど、心に沁み入るほど深い響きだった。

流れの中心に立つと、足元から細かな泡が昇っていた。

まるで、見えない誰かが小さな息を吐いているようだった。

 

そのとき、

霧の向こうに、一筋の影がすっと動いた。

動いた、ように思えた。

 

風ではない。

生き物でもない。

けれど、そこには確かに"気配"があった。

水の精霊でも、岩の記憶でもない、もっと曖昧なもの。

 

霧の奥へ進んでいくと、苔むした岩の上に、ひとひらの羽が落ちていた。

羽は濡れておらず、風も吹かぬのに、微かに揺れていた。

ふわりと浮かび、流れに乗って遠ざかる。

それが現実だったのか幻だったのか、確かめようもない。

 

湯の流れの中に足を浸して座ると、肌がじんわりと温もる。

冷たさを孕んだ風が頬を撫でるたびに、身体の芯がそれに応えてゆく。

流れの音、湯のぬくもり、霧の光、遠くの鳥の声、

すべてが静かに重なり、心の底に澱のように沈んでいった。

 

この場所には、時間というものが存在していない。

朝も昼も夜もない、

ただ、永遠の"いま"だけが、滝音とともに流れている。

 

湯に溶けた光は、刻を越える。

誰の声も届かぬ深淵で、

記憶だけが息をしている。

 

そしてそれは、記憶であると同時に、

まだ誰にも知られていない夢でもあった。

 

私は立ち上がった。

名もなき羽が流れていった方角へ、

霧をかき分け、岩を伝い、そっと足を進めた。

 

どこまでも湯は続き、

その先には、まだ見ぬ白の国があるような気がした。

誰も足を踏み入れたことのない、

けれどどこか懐かしい、

そんな場所が。

 

岩の間から、細く透明な流れが顔を出していた。

掌にすくって口に含むと、

ほんのわずかに温かい。

湯の味はしなかった。

ただ、静けさの味がした。

 

霧が再び厚くなり、世界が白に溶けていった。

視界が失われるにつれて、足元の感覚が鋭くなっていく。

石の冷たさと湯の温かさが交互に肌を叩き、

まるで夢と現の境を行き来するようだった。

 

やがて、滝の流れが耳から遠ざかる。

それでも音は消えない。

それはきっと、私の中で流れ続けるのだろう。

 

その流れは、記憶という名の川になり、

やがて言葉となって、

誰かの心に触れるのだ。

 

そのときにはもう、滝の名も、羽の影も、霧の色も忘れているかもしれない。

それでも、あの白の温もりだけは、

きっと消えない。

 




滝が湯を纏っていたのではなく、
湯が滝というかたちで、この世に現れていただけなのかもしれない。

すべてが仄白い、静かな幻の中で。
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