言葉の届かぬ深奥に、
名もなき泉の音が、
ひそやかに記憶を呼び覚ます。
葉の影が落とす光の破片を追いながら、私は山の奥へと歩いていた。
湿った大地の匂いと、かすかに鼻を刺す硫黄の香。
遠くで鳥の声が短く鳴き、すぐに森の沈黙に飲まれていった。
川沿いの細い踏み跡を辿るにつれ、岩が増え、草が減り、足元の水音が次第に熱を帯びていく。
川とは呼べない浅い流れ。けれど、それは冷たくない。
指先で触れると、ふんわりと湯が返る。
それは、まるで眠っていた大地の呼吸が、静かに肌を撫でてくるようだった。
霧が垂れていた。
天から落ちるわけでもなく、地から湧くわけでもない、
ただそこに在る、白くて柔らかなもの。
霧の粒は光を受けて白銀に弾け、岩肌を包み込み、あらゆる音を丸くする。
湯が岩を伝って流れている。
冷え切った世界の中で、あたたかな流れが、斜めに、いくつも、
小さな滝となっては流れ落ちる。
岩は、濡れているのに白い。
白というより、光をまとった石のように見えた。
水の温かさが、この場所の記憶を保っているのだと、
そんな気がした。
ひときわ大きな岩に足をかけると、湯の滝が目の前に開いた。
音は激しくない。
けれど、心に沁み入るほど深い響きだった。
流れの中心に立つと、足元から細かな泡が昇っていた。
まるで、見えない誰かが小さな息を吐いているようだった。
そのとき、
霧の向こうに、一筋の影がすっと動いた。
動いた、ように思えた。
風ではない。
生き物でもない。
けれど、そこには確かに"気配"があった。
水の精霊でも、岩の記憶でもない、もっと曖昧なもの。
霧の奥へ進んでいくと、苔むした岩の上に、ひとひらの羽が落ちていた。
羽は濡れておらず、風も吹かぬのに、微かに揺れていた。
ふわりと浮かび、流れに乗って遠ざかる。
それが現実だったのか幻だったのか、確かめようもない。
湯の流れの中に足を浸して座ると、肌がじんわりと温もる。
冷たさを孕んだ風が頬を撫でるたびに、身体の芯がそれに応えてゆく。
流れの音、湯のぬくもり、霧の光、遠くの鳥の声、
すべてが静かに重なり、心の底に澱のように沈んでいった。
この場所には、時間というものが存在していない。
朝も昼も夜もない、
ただ、永遠の"いま"だけが、滝音とともに流れている。
湯に溶けた光は、刻を越える。
誰の声も届かぬ深淵で、
記憶だけが息をしている。
そしてそれは、記憶であると同時に、
まだ誰にも知られていない夢でもあった。
私は立ち上がった。
名もなき羽が流れていった方角へ、
霧をかき分け、岩を伝い、そっと足を進めた。
どこまでも湯は続き、
その先には、まだ見ぬ白の国があるような気がした。
誰も足を踏み入れたことのない、
けれどどこか懐かしい、
そんな場所が。
岩の間から、細く透明な流れが顔を出していた。
掌にすくって口に含むと、
ほんのわずかに温かい。
湯の味はしなかった。
ただ、静けさの味がした。
霧が再び厚くなり、世界が白に溶けていった。
視界が失われるにつれて、足元の感覚が鋭くなっていく。
石の冷たさと湯の温かさが交互に肌を叩き、
まるで夢と現の境を行き来するようだった。
やがて、滝の流れが耳から遠ざかる。
それでも音は消えない。
それはきっと、私の中で流れ続けるのだろう。
その流れは、記憶という名の川になり、
やがて言葉となって、
誰かの心に触れるのだ。
そのときにはもう、滝の名も、羽の影も、霧の色も忘れているかもしれない。
それでも、あの白の温もりだけは、
きっと消えない。
滝が湯を纏っていたのではなく、
湯が滝というかたちで、この世に現れていただけなのかもしれない。
すべてが仄白い、静かな幻の中で。