泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風が記憶を運ぶというなら、それはきっと、言葉になる前の願いのことだろう。
歩き始めるずっと前から、胸の奥に小さく灯っていた、名前を持たない光。

陽の傾きとともに形を変えてゆく影を追い、草のざわめきに耳を澄ませ、石の冷たさに時を感じ、木々の隙間からこぼれる光を、言葉ではなく感触として受け取る。

そこに何があるのかは、知らなくてよかった。
ただ、歩いていくことで、ひとつひとつの風景が、音もなく応えてくる。
それはまるで、遠い昔に交わされた約束のようだった。

誰かの記憶に触れるように、あるいはまだ語られていない詩を、そっと撫でるように。
足元に咲く花も、天を仰ぐ石も、すべてがひとつの物語の中で息づいていた。

その旅は、始まったというより、すでにどこかで、始まっていたのかもしれない。


0243 星を読む森の詩

風に縁どられた細い径を、木の葉のかさなりとともに辿ってゆく。

足もとは薄く苔むし、過ぎた雨の名残が土をやわらかくしていた。

歩くたび、靴の底に静かな吸い込みの音が残る。

 

低くうねる尾根に沿って、幾本もの枝が交差し、木立ちは互いにその影を落としあっていた。

光はまばらにしか降りてこない。

けれど、それゆえに、射し込む一条の光が、まるで言葉のように空間を分ける。

ひとつ、またひとつ。

光のかけらが落ちるたび、空気が微かにゆれ、静けさの形が変わってゆく。

 

苔の間からは、小さな赤い実がひとつだけ顔をのぞかせていた。

掌ほどの石の横で、風の息づかいに小刻みに揺れている。

摘むでもなく、触れるでもなく、ただ見ていた。ひとの営みとは無関係に、ここではすべてが、ただ“ある”ということに意味を持っているようだった。

 

森は深く、だがその深さは恐れではなく、懐かしさを帯びていた。

土の匂いと、湿った葉の重なり。

木の幹にしがみつく地衣類が、まるで時の流れの輪郭をなぞっているようにも見える。

過ぎ去った季節の名残が、このあたりにはまだ漂っていた。

どこかで、雨音に似たものが聞こえた気がして、立ち止まる。

 

耳を澄ます。

 

それは葉を落とす音だった。

ひとつの葉が、細い枝から離れて、空へではなく、地へ還る音。

ゆっくりと回転しながら落ちていった葉は、音もなく地に吸い込まれ、たしかに、そこにあった。

すべてが、静かに完結してゆく。

 

振り返れば、来た道の先に光はなく、ただ淡い陰が幾重にも折り重なっていた。

前を見れば、さらに複雑に絡み合う枝の奥に、ほのかな明かりがひとつ、ある。

明かりというには頼りなく、気配というには確かすぎる、そんな輝き。

 

それに導かれるように、また一歩を踏み出す。

 

斜面の途中に、風を遮るように石が並んでいた。

大小まばらに、苔に覆われながらも、それぞれがかつて何かを意味していた形だ。

石のひとつに指を触れると、ひんやりとした感触が肌にしみ込んできた。

冷たさというよりも、長い時を蓄えた温度。

触れていると、掌の奥にまでその重さが移ってくるようだった。

 

誰かがここに座り、空を見上げたのだろうか。

いや、それは誰でもない、ずっと前からこの森が知っていた視線。

天を仰ぐように据えられたその石の角度が、夜空の何かを指し示している気がしてならなかった。

言葉のない祈りが、石の面に滲んでいる。

かすかな苔のひび割れが、星図のように見える。

 

この場所に夜が来れば、きっと何かが語られる。

語られるというよりも、開かれるのだろう。

空と地のあいだに、静かに綴られる詩のように。

 

木々の上、空はまだ白く濁っていたが、その向こうにある光を、確かに感じていた。

 

風がやや強くなった。

枝先がふるえ、葉の重なりがざわめいた。

それは何かを告げているようで、何も言ってはいなかった。

音があっても、意味がなかった。

意味がなくとも、何かはそこにあった。

 

緩やかな傾斜を登るうち、足元の土は石まじりになり、葉の層が薄れていった。

靴の底に感じるごつごつとした凹凸が、身体の奥にじかに響く。

呼吸のひとつひとつが、風の流れに融けてゆく。肺が森を吸い、森が身体の内にひろがる。

 

やがて、木々のあいだが開け、視界の遠くに、草の原が現れた。

風はそこに至って一度、沈黙した。

まるでこの場所には踏み込んではならぬとでも言うように。

 

草は腰の高さまで伸び、細い茎が風にゆれながら、音のない会話を交わしていた。

一面に広がるその銀緑の波は、まるで空の底を歩いているかのような錯覚を与えた。

遠くに、石が積まれていた。

まるく、低く、土に還りかけた塚のような形。

 

その中心に、天を向いてぽつりと立つ柱状の石があった。

表面には風化の痕があり、苔もまだらに貼りついていたが、輪郭は確かに星をかたどっていた。

星とは、空の火ではなく、地に眠る光なのかもしれないと思った。

 

触れずに、ただ見上げた。

それは誰のために、どれほどの季節を超えて立ち続けていたのか。

名もない、声もないその石が、いまもなお空を読みつづけているというその事実が、森の息づかいと重なり、深い場所へと染みていった。

 

太陽は、木立の向こうでその姿を傾けていた。

光はすでに黄を失い、白から灰へと静かに変わりつつある。

空が徐々に透けてゆく。

 

立ち尽くしていた足元に、小さな花が咲いていることに気づく。

気づいたとたんに、それが、ずっと前からそこにあったことを知る。

ひとひらの白い花弁が、まだ光の残る空を映しているようだった。

 

そして、空がひらいた。

 

はじめは、わずかな点がひとつ、薄明の向こうに浮かんだ。

それから、もうひとつ。さらに、またひとつ。

夜が来るのではない。

星が目を覚まし、夜を連れてきていた。

 

ひとつの星が石の輪の中心と重なり、まるで地に刻まれた祈りに応えるかのように、脈を打つ。

風が星の方角から吹いてきた。

 

声なき声が、肌を撫でていった。

それは過ぎた時間の記憶。

まだ見ぬ場所の呼び声。

どちらともつかないものが、身体の奥の澄んだ場所に、そっと触れていた。

 

しばらく、そこに座った。

夜が深まるにしたがって、星の数は増え、森の輪郭がゆるやかに溶けていった。

風は冷たく、けれど寂しさはなかった。

 

石の影は、星に照らされて長く伸びていた。




夜が森をすっかり包んだあとも、星は消えなかった。
ただ、光の密度が変わり、沈黙が深さを増しただけだった。

風は、もう音を立てなかった。
遠くの木立が揺れているのが、気配として肌に伝わる。
ひとつの石が、まだ天を仰いでいる。
そこに誰の手も届かず、誰の名も刻まれていないことが、かえって豊かだった。

言葉はとうに失われていても、そこにはたしかな「読む」という行為が残されていた。
読むとは、見つめること。
見つめるとは、沈黙に身を置くこと。

あの星の下で交わされた幾千の祈りは、すべてが音にならずに、空へと還っていったのだろうか。
それともまだ、あの森のどこかにひそやかに漂っているのだろうか。

歩みを止めた足元には、もう花の影もない。
だが、かすかに香る草の匂いが、ここに居たという証をそっと刻んでいる。

ふたたび歩き出すとき、背を向けるのではなく、ひとつの静けさを胸に抱くようにして、この森を後にした。

祈りは、残された石の上に。
夢は、空の向こう側に。

そして歩むものは、
そのどちらでもない場所に、そっと身を置いてゆく。
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